アブラハムの生涯 |「月の光」

アブラハムの父・テラが亡くなったハラン

 下の記事を参考にしています。
https://blogs.yahoo.co.jp/nekonoseu/5533139.html

通説で考えられている「ウル」はメソポタミアの南部のジッグラト

■[聖書と考古学]アブラハムの故郷ウルは実在の場所
 http://d.hatena.ne.jp/littleyohane/20090927/1254060378

「後にテラは,その子アブラムと,ハランの子で自分の孫のロトと,その子アブラムの妻である嫁のサライを連れ,一行は彼と共にカルデア人のウルを出てカナンの地に向かった。」(創世記11:31)

 聖書によるとエホバ神はアブラハムに、住んでいた「カルデア人のウル」から出るようにと指示を与えました。(ネヘミヤ9:7)アブラハムはエホバ神の指示に従い、父親のテラと、甥のロトと、妻のサライを連れて「カルデア人のウル」から出ました。(創世 11:31;12:1)

 そして、アブラハムは、神の示された土地で天幕生活をすることになりました。
 エホバはアブラハムに将来彼の子孫に、アブラハムが歩き回ったカナンの土地を与えることを約束されました。
 それで、アブラハムの子孫であるイスラエル人が約束の地を取得することになりました。

 歴史家は長い間、アブラハムを物語上の人物だと言っていました。
 しかし考古学者たちのツルハシとシャベルはアブラハムの故郷カルデア人のウルを明らかにしました。

 1922年から1934年にかけて,英国の考古学者レナード・ウーリー卿はユーフラテス川の西岸からほんの数キロしか離れていないテル・エル・ムカッヤール(「歴青の塚」)がウルの遺跡であることを証明しました。

 そして、アブラハムが後にしたウルは隆盛を極め,世界貿易の中心地で,高度に文明化の進んだ都市であったことを明らかにしました。

 ウルはバビロンの南東約240キロ、ユーフラテス川の現在の川床の西にあります。その遺跡の広さは約910メートル×730メートルです。その場所はかつて月神ナンナ(または,シン)の崇拝の中心地でしたが,今でも,縦61メートル,横46メートル,高さ21メートルほどの神殿塔,すなわちジッグラトがその遺跡の最も際立った特色となっています。

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 発掘者たちはウルの王墓に金,銀,ラピス・ラズリ(青金石)の品や他の高価な物品を数多く見つけたほか,その都市の初期のシュメール人の王や女王たちが従者である男女の僕たちと一緒に埋葬された証拠を発見しました。

 その場所で発見された粘土板によると、そこには男子に文字と算数を教える学校がありました。粘土板の中には楔形文字の書き方を教えるために使われたものもありました。他の粘土板からは,生徒が掛け算と割り算の表を持っていたこと,そして平方根や立方根の計算をしていたことが分かります。粘土板の多くは商業上の文書です。

 さらに,ウルでの発掘調査によると、個人の家と思われるものの遺跡は,れんがでできており,しっくいと水しっくいが塗ってあり,舗装された中庭を囲むようにして13ないし14の部屋があったことを示しています。

 ウルの建築家たちが,円柱・アーチ・丸天井・ドームなどを使用したことも分かりました。ウルの職人たちは,極上の宝石,凝ったデザインのたて琴,純金の刃でできた短剣などを製造しました。幾つかの家屋から,陶製の下水管が発掘されました。その管は下方の,深さが12メートルもある大きな汚水溜めにつながっていました。

 これらの発見により,多くの学者はアブラハムに対する見方を改めました。

 レナード・ウーリー卿は,自著「過去を掘り起こす」の中で,
「これまでアブラハムと言うと,ただの天幕生活者と考えがちであったが,実は,都会の洗練されたレンガ造りの家に住んでいたのかもしれない」
 と書いています。

 考古学者のアラン・ミラードは,自著「聖書時代の遺物」の中で,
「アブラハムは,高度に発達した都市と,そこで得られる安全で快適な生活すべてをあとにして,立場の低い遊牧民になったのである」
 と述べています。

 アブラハムの故郷であるウルという都市について,歴史家たちは長い間疑念を表明してきました。
 しかし,考古学者のシャベルは聖書が正しいことを証明しました。

ハランのあった場所

 ハッラーン(ハラン) Harran、別名カルラエ Carrhae は、古代シリア地方の北部にあった都市の名で、現在はトルコ南東部のシャンルウルファ県にあたる。
 古代メソポタミア北部およびシリア北部の商業・文化・政治・宗教の中心都市であった場所で、現在は非常に貴重な考古遺跡となっている。
 ハランは旧約聖書で、アブラハムがカナンの地に移る前に住んだ場所ともされている。

 旧約聖書のハラン。

 創世記11章31節、12章4-5節では、テラが息子アブラハム、孫のロト(ハランの息子)、アブラハムの妻サライとともに、カルデアのウルからカナンの地に向かう途中にハラン Harran に至り、そこにとどまった。
 テラは息子アブラハムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラハムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは205年の生涯を終えてハランで死んだ。
(創世記 11・31)

 テラはハランで没し、アブラハムは75歳の時にハランを出てカナンに向かった。
 学者たちは聖書のハランを現在のハッラーンと同定している。
 同じく創世記27章43節では、ハランにはラバンが住み、その妹リベカはイサクと結婚した。
 後に、イサクの双子の息子エサウとヤコブは対立し、ヤコブはカナンを出てハランに住むラバンのもとへ逃げ、ラバンのところで働き20年を過ごします。
「私の言うことをよくよく聞き、急いでハランに私の兄ラパンのところへ逃げて行きなさい。」
(創世記 27・43)
 ユダ王国のヒゼキヤ王の時代、ハランはアッシリアに対し反乱を起こし、アッシリアに再征服される。ハランに与えられていた特権の多くは奪われたが、サルゴン2世が後に回復した。
「私の先祖たちは、ゴザン、ハラン、レシェフおよびテラサルにいたエデンの人々を打ち滅ぼしたが、これらの諸国の神々は彼らを救いえたであろうか。」
(列王記下 19・12、イザヤ書 37・12)

「エゼキエル」27・23

「ハラン、カンネ、エデンとシェバの商人たち、アルシュルとキルマドは、お前と取引を行った。」

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 ハランはローマ時代には「カルラエ」と呼ばれ、その遺跡はこの地方に今も残っています。紀元前53年に、ローマ共和国とパルティアの間で行われたカルラエの戦い古戦場でもあります。

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 ハッラーンの街はローマ時代からサービア教徒の時代、イスラム教や十字軍の時代まで存続し、イスラム世界の学問の中心としても栄えたが、モンゴル帝国の襲来で廃墟と化し、以後、再建されることはありませんでした。

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 ハッラーンはトルコとシリアの国境に近く、古代にはエデッサの名で知られたシャンルウルファの街から南東へ44kmほどの位置にあります。
 シャンルウルファからハッラーンまでの道は、トルコ南東部の農業の中心である灼熱のハッラーン平原をまっすぐ伸びています。
 古代メソポタミア文明の都市としての最盛期には、ハッラーンは南のダマスカスからの道と、ニネヴェとカルケミシュを結ぶ道が交わる地点にあり、古代オリエントにおいては戦略的に非常に重要な地であったのです。
 なおかつ、ハランやエデッサはユーフラテス川やその支流バリフ川の上流の平原にあり、土壌は肥沃で雨量もメソポタミア南部より多く、農耕が早くから行われた地です。
 アッシリアの粘土板文書において、ハランは「ハラヌ」の名で、紀元前1100年ごろのティグラト・ピレセル1世の時代以来頻繁に現れている。
 ヒッタイトのシュッピルリウマ1世は、ハラン付近を支配していたフルリ人のミタンニ王国を破り、ミタンニの王にシャッティワザを擁立して条約を交わしたが、シュッピルリウマ1世の息子でカルケミシュの副王ピヤシリはミタンニ征服の途上でハランを焼き払った。
 ハランは紀元前763年にも略奪されたが、新アッシリアの帝王サルゴン2世により復興された。
 ハランはさらに、紀元前612年に新バビロニアとメディアにより首都ニネヴェが奪われた後にアッシリアの亡命政権の首都となったが、紀元前609年にネコ2世の古代エジプトと同盟を結んだが、アッシリアがバビロニアとの戦い(カルケミシュの戦い)で敗れて以降に滅亡した。
 ハランにあり古くからの崇敬を集めていた月神シンの神殿は、新アッシリアのアッシュールバニパルや新バビロニアのナボニドゥスなどにより何度も再建された。
 ローマ時代のシリアの歴史家ヘロディアヌス(紀元170年 - 紀元240年頃)もハランにあった月の神殿について言及している。

【モレの樫の木】ハランからカナンへ旅立つアブラハム、シュケムで主が現われる

 アブラムは、父テラの死後、ヤハウェ神(יהוה)から啓示を受け、それに従って、妻サライ、甥ロト、およびハランで加えた人々とともに約束の地カナン(パレスチナ)へ旅立った。
 アブラム75歳の時のことである。
 以下は、その時の神の啓示である。
「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上の全ての民族は、あなたによって祝福される。
— 旧約聖書『創世記』12:1-3、日本聖書刊行会の新改訳聖書より

 アブラム一行がカナンの地に入ると、シェケム(エルサレムの北方約50km)で神がアブラムの前に現れ、
あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。
— 『創世記』12:7、日本聖書刊行会の新改訳聖書より
 と預言された。

 アブラムは、自分のために現れてくださった神のため最初の祭壇シェケムに築いた。

次、ベテルとアイの間に祭壇を築く

 その後、アブラム一行は更に南下してベテルとアイの間(エルサレムの北方約20km)に移り住んだ。
 そしてここにも神のための祭壇を築き、神の御名によって祈った。

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 その後、ネゲブ地方(カナン南部の高原性乾燥地帯)が飢饉に襲われたため、アブラム一行は揃ってエジプトへ避難した。
 見目麗しい妻サライが原因で自分が殺害されることを恐れたアブラムは、妻サライに自分の妹とだけ称させることにした(実際、サライは、アブラムの異母妹であった)。
 そのサライがエジプト王の宮廷に召し抱えられたため、アブラムは一大財産を築いた。

 神は、アブラムの妻サライがエジプト王の妻とされたことでエジプト王および王家を災害で痛めつける。エジプト王は、神がアブラム側に立っている事態を理解したので、アブラム一行を彼らの全ての所有物と共にカナンの地へ送り出した。
 アブラム一行は、ベテルとアイの間の祭壇まで戻り、神の御名によって祈った。
 アブラム一行は既に家畜も奴隷も金銀財産も十分持ち過ぎていたので、アブラムがカナン地方(ヨルダン川西岸)を、ロトがヨルダンの低地全体を選び取って住み分け、ロトは、のちに東方、ヨルダン川東岸に移動した。
 なお、ロトがヨルダンの低地を選び、移り住んだ時点では、そこにはまだソドムとゴモラが存在しており、これらの都市は神の怒りによって滅ぼされる直前であった。
 アブラムとロトとが分かれた後、アブラムに神から以下のような預言が下された。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。
— 『創世記』14:14-17、日本聖書刊行会の新改訳聖書より

 彼は老齢になっても嫡子に恵まれなかった(ハランを出発したときは75歳)が、神の言葉
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
「あなたの子孫はこのようになる。」
— 創世記15:5、新共同訳聖書より
 と言われた。

【ベイティン・ベテル遺跡】
 https://www.isan-no-sekai.jp/report/2915

 ベイティンは旧約聖書に登場する「ベテル」という土地であったと考えられている。
 ベテルとは、旧約聖書の書かれたヘブライ語で「神の家」を意味し、族長のヤコブが宿営し、「天の梯子」の幻を見た場所である(創世記28: 11–22; 35: 1–15)。
 また、南北イスラエル分裂後は、北王国イスラエルの国家聖所となり、「金の子牛」が置かれた場所である(I列王記12: 26–33)。
 ベイティンにおいて、そういった記述に相当する時代の活動の痕跡を残しているのはテルであり、現在から80年以上前にアメリカ人の研究者によって発掘調査が行われた(杉本・間舎2013: 106–107)。
 ベテルは、その後も宗教的に重要な場所であり続けたようである。
 キリスト教神学者のヒエロニムスは、ギリシア語で書かれたエウセビオスの『地名録』を紀元390年頃にラテン語に翻訳した際に、ヤコブの幻を記念した教会堂がベテルにあったと記している。
 19世紀以降は、ヨーロッパの研究者がパレスチナ地方を旅行し、記録を残すようになった。
 中にはベイティンを訪れた者もあり、先述の「塔」に教会堂の建材が使用されていることが指摘されている(Guérin 1868: 16; Robinson 1856: 448)。
 1874年にこの遺跡を訪れたコンダーとキッチナーも、「塔」に教会堂の柱頭が用いられていることをスケッチと共に紹介し、この場所がアブラハムの宿営した「ベテルの東」であろうと述べている(Conder and Kitchener 1882: 307)。

主は、マムレの樫の木の所でアブラハムに現れた

 その後妻のサライの勧めで彼女の奴隷であったハガルを妾にして76歳にしてイシュマエルを授かり、後に99歳で割礼を受け、老妻サラ(サライ)との間に100歳になって嫡子イサク(イツハク)を授かった(『創世記』第16‐18・21章)。
「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り 口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムは すぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。
「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
 その人たちは言った。
「では、お言葉どおりにしましょう。」
 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
 彼らはアブラハムに尋ねた。
「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
「はい、天幕の中におります」
 とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
 サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
 主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。
「わたしは笑いませんでした。」
 主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」

「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(18節)

アブラハムはケトラという女性を妻に娶った

 これ以外にアブラハムの子として記されているものとして、アブラム137歳の時に妻サラは127年の生涯を閉じた(『創世記』第23章第1節)が、その後アブラハムはケトラという女性を妻に娶りジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアという子供をもうけ、その後アブラハムはイサク以外の子には生前分与として贈り物を与えて東の地に去らせ(第25章第1‐6節)、イサクには残りの全財産を継がせたほか自分の故郷から傍系親族のリベカを連れてこさせて彼の妻にさせた(第24章)。
 アブラハムは175歳で世を去り、マクペラの洞窟へイシュマエルとイサクによって葬られた(第25章第7‐9節)。

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イサクの燔祭〜モリヤ山、神殿の丘

 イスラム教の先達ともいうべきユダヤ教、キリスト教の一神教をはぐくんだ聖地エルサレムは、イスラム教勃興以後、イスラム勢力が政権を握り、多くのイスラム教徒が他の一神教と共存するようになった。
 しかし、これら三つの一神教によるエルサレムを巡る紛争に象徴されるように、この土地は宗教間の対立が絶えなかった。
 岩のドームはかつてのエルサレム神殿内にあり、建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが685年から688年の間のいつの時点かに建設を思い立ったことに始まり、688年に着工した。
 当時、イスラム最高の聖地メッカはアリー・イブン=アビー=ターリブ(第4代正統カリフ・アリー)を支持するイブン・アッ・ズバイルによって制圧されており、それが岩のドーム建設の直接の動機であったと推察される。
 建物は、預言者ムハンマドが夜の旅(イスラー)に旅立ち、また、アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した。
 外部は大理石と美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されているが、これは1554年にオスマン帝国のスレイマン1世の命によって建築家ミマール・スィナンが貼り直したもので、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクであった。
 ドーム部分は内部装飾も含めて11世紀に再建されたものだが、これはほぼ創建当時のままのデザインである。

岩のドーム

神殿の丘の地図

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【参考】https://www.lds.org/scriptures/bible-maps/map-10?lang=jpn

【ベイティン・ベテル遺跡】
 https://www.isan-no-sekai.jp/report/2915

【テル・ベエルシェバ】
 http://israel.bona.jp/wp/archives/2109/

【メギドの丘】
 http://israel.bona.jp/wp/archives/798/