〔論考〕日本の神話状況から見るアダムとイヴ |「月の光」

〔論考〕日本の神話状況から見るアダムとイヴ

日本神話から「アダムとイヴ」をどのように読んだらいいのか?

あいう

 アダムとイヴの造られたのは、『聖書』の時代記述だと約6,000年前の出来事になる。
 人類学の知識だと、ネアンデルタール人が登場するのは25万年前、それから10万年前くらい経て、クロマニョン人のような新人類に変遷していった。
 現在ある歴史試料のミトコンドリア・イブの研究から、アフリカに生存していた現生人類の最も近い共通女系祖先は、約12万年前から20万年前にアフリカに生存していたと推定される。
 日本発のミトコンドリア・イザナミなる歴史試料が発見されれば、人類史の歴史は激変するはずなのだが、ミトコンドリア・イザナミなるサンプルは発見されそうにない。
 これは日本人にしか理解できないことなのだが、人体をもって現れた日本の神々は、使命を終えると、御自分の肉体を「音と水に戻す」か「お土に戻す」かして神上がられたので、神々の力が正常に機能している時代のサンプルは残らないことになっている。

 立つ鳥跡を濁さず、である。

 ミトコンドリア・イザナミなる歴史試料は発見されないだろう。
 日本では、神の歴史は「神話」として語り伝えられることになっている。

 日本は神の国なので、神話は過去の物語ではなく、現在も刻一刻と生成されている。

 西暦712年に編纂された『古事記』神代の段は1300年前の段階の神代の物語を伝えるわけだが、神々の物語は、この1300年の間に大きく変化し変貌している。

 特に2016年と2017年の急変は特筆ものだ。

 2016年6月11日、伊邪那岐命と伊邪那美命によって千引の岩戸が開かれた。
 2016年6月12日、素戔鳴神の岩戸が開かれた。
 2016年6月23日には、天照大神の天之岩戸が素戔鳴神の真心によって開かれている。
 2016年8月6日に、迦具土命が復活された。
 2016年8月17日、黄泉国開きが行われている。
 2016年10月1日、「オノコロ四音(よんおん・シオン)」が開かれている。
 2017年5月14日、伊邪那美命の火傷を負ったミホトのキズが癒えた。

 2017年6月1日、伊邪那美命が復活されている。

 西暦712年に編纂された『古事記』神代の段では、考えられないような神話の進捗状況になっている。
 あと10年も経て時代が落ち着いたら、次の時代を担う『古事記』が神様から降ろされるのだろう。

 ミトコンドリア・イブに話を戻そう。

 ミトコンドリア・イブの試料は、イヴの誕生は最大で20万年前の出来事であることを物語っている。

 『聖書』を読みこなそうとすると、アダムとイブが誕生したのは6,000年前だという記述でまずつまづく。

 このツマヅきを回避するために、「創世記」の「第一の日」や「第ニの日」というのはかなり長い期間を言っているので、我々が日常的に使っている一日や二日というのとは全く違う、と説明が用意されている。

 だから、「創世記」を勉強しようとすると、

 ネアンデルタール人が登場するのは25万年前で・・・
 と人類史を振り返りたくなってしまうのだ。

 日本人にとって『日本書紀』に神武天皇の言葉として

「自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。」
(天孫降臨より、今まで179万2470余年になる。)

 という言葉が残されているのも鬼門だ。

 1974年にエチオピアで発見された化石人骨のルーシーは318万年前と推定されているので、瓊々杵尊が179万年前に天孫降臨されていても不都合のない年代になっている。
 そうであるならば、まず最初に学ぶのは『日本書紀』であるし、『古事記』だろう、となるのは日本人にとって極めて自然な流れなのだ。
 『聖書』が語る歴史の射程はあまりにも若すぎるのだ。
 『聖書』を参考にシュメールも紐解いたにしても『日本書紀』のように179万年前まで考察対象になるわけでもない。

 よって日本人にとって『聖書』とは、『古事記』と『日本書紀』を学ぶ上での補助教材である。

 「創世記」第一行目から第三行目の解読なら、情熱をもって打ち込めるのだが、アダムとイブの話になると、途端に情熱が入らなくなる。
 私にとっての問題は、神々の問題であって、人間の問題ではないからだ。
 天の神々のあり方に問題があって、その遷し(写し)としての地の側の神々や人間に鏡のように映されてしまっているのではないか。
 地の国は天の国の写し(遷し)になっているので、天の国の神々の在り方が地の国の神々や人間の問題として現れている。

 地の国の神々の問題に関与できるのは、天の国の神々だけである。

 これは今でも過去でも、未来でも絶対的な神律だと思う。

 2016年から2017年にかけての日本の神々の岩戸開きが整い、ようやく地の神々の問題に関われるようになった。

 天の神々の配置が整えば、地の神々のサポートをするのは、天の神々の務めでもある。

 私が、日本以外のイスラエルやイギリスやイタリアに住んでいたら、こういう発想は出来ないだろう。
 西欧の『聖書』の論者の多くは、アダムとイブの問題を「人間の原罪」と説く。
 いやアダムとイブの問題は「人間の原罪」であるという風に説かざるを得ないのだ。

 西欧では『聖書』の神が絶対で全知全能であるゆえに、

『聖書』の神に反論するような主張は「悪魔」だという論調をたぶんに含んでしまうため、
アダムとイブの問題は「人間の原罪」であるという風に説いたほうが身の安全のために都合がいいのだ。

 こうして、『聖書』の岩戸は一つづつ閉じていき、終いには光を発しなくなってしまう。

「創世記」アダムとイヴは6,000年前(紀元前4000年前頃)の出来事である

 私は神様に次のように質問した。
「創世記」アダムとイヴの誕生は6,000年という風に読めるのだが、そのように読みこんでいいものでしょうか?

 そして、神様の御教示を受けた。

 人類史の流れで読む場合は、「第一の日」とか「第二の日」とか記述される部分をかなり長い期間ととって読み込む通説の考え方で妥当だ。
 その他に、アダムとイヴが誕生してから6,000年という風にも読み込むこともできる、ということであった。

 不思議な回答だが、どういうことなんだろう?

 アダムとイヴが誕生してから6,000年という風にも読めるとは、どういう方向なんだろう。
 アダムとイヴが誕生してから6,000年と読むなら、ノアの方舟はアダムとイヴが生まれてから1656年後に起こったことになるから、紀元前2370年ごろノアの方舟の洪水が起こったことになる。
 アブラハムが生まれるのは紀元前2,123年なので、中東一帯が全てが洪水で流されて果たして200年で、洪水以前と同じ水準の都市文明を築くことができるのだろうか?

 現実的には不可能ではないか?

 また、アダムとイブが誕生したのは、紀元前4000年前のことだったということになれば、日本の青森県の三内丸山遺跡は紀元前3500年前ぐらいの遺跡なのだから、アダムとイブの話の整合性がますます疑わしくなってしまう。
 青森県の三内丸山遺跡よりもわずか500年前にアダムとイヴが誕生したのだろうか?

 それでも、神様はアダムとイヴが誕生してから6,000年という風にも読み込めるという。

 そういう読み込み方ができるとしたら、それはどういう方法なんだろう。

 私は再び日本神話の中で神々の動きを追った。

(※)神様を交えての勉強会。
 1995年6月にある老人の霊人が私の元に現れて、2週間に渡る教育を受けたのですが、私の元を立ち去るとき
「あと分らないことは神に尋ねよ」
「そなたが尋ねればどの神でも答えてくれるぞ」
 という言葉を残してくれていました。
 1995年6月以降、勉強は神様に質問しながら学んでいく、現在のスタイルになっています。

千引の岩戸が閉められる前に生まれた「かくつちの命」の位置の特殊性

 日本神話が激変するのは、「かくつちの命」が誕生してからであった。
「かくつちの命」が生まれ、伊邪那美命のミホト(女陰)が火傷し、その火傷キズが致命傷になって伊邪那美命は命を落とす。
 伊邪那岐命は伊邪那美命の後を追って、よみ国(黄泉国)へ行く。
 伊邪那美命の体にウジがたかっているのをみて、伊邪那岐命は恐ろしくなってよみ国(黄泉国)から脱出する。
 黄泉平坂の坂本で、伊邪那岐命は伊邪那美命は千引の岩戸を閉めて交流を断つことになった。
 伊邪那岐命はよみ国(黄泉国)から立ち戻って、お一人で国造りや神生みをされることになった。
 最後に天照大神、月読大神、須佐之男大神の三貴神を生みあげて、後の世の統治を託した。
 日本神話が統治不能になっていくような激変は「かくつちの命」が誕生してからであった。

 かくつち神とはどういう神なのか、これは私の大きなテーマであった。

 日本の神代の昔に、以心伝心で伝える伝達方法の他に、文字で伝える方法が取り入れられるようになる時期があった。
 伊邪那岐命と伊邪那美命の千引の岩戸が閉められる前の出来事だった。
 文字を書く働きの神の名を、「かく(書く)つち神」と言った。
 神界で文字で書くということは、神界の律法の中心になっていくということだ。
 「かくつち神」が物質界に現れるときには「かぐつち神」と呼び、「核」に関わる神様になった。この場合、「かぐつち神」と「く」に「濁点」を入れた神名で表したのだろう。
 「かくつち神」も「かぐつち神」も誕生は全く同じである。
 御神意の中心になりうる文字の側面からみれば「かくつち神」であるし、物質界の核エネルギーから見れば「かぐつち神」である。

 伊邪那岐命と伊邪那美命の神生みの最終段階で「かくつち神」が生まれた。

 書かれたものは「読まれる」ので、「かくつち神」の誕生と同時に「よみこく(読み国)」も誕生している。
 伊邪那岐命と伊邪那美命の千引の岩戸閉めは今から500万年前と推定できるので、「かくつち神」の誕生と「よみこく(読み国)」の誕生はそれよりはるか以前である。
 日本神話は、伊邪那美命が亡くなる原因となった「かくつち神」を伊邪那岐命は切り殺したと伝える。

 つまり、文字によって御神意を伝える神代の風習を一掃したのだ。

 物質的には核反応によるエネルギー利用を中止したことになる。
 太陽のような恒星の発展は水素の燃焼から始まって最終段階で鉄が生成される。
 鉄が生成されると重力崩壊をおこし、恒星が急速に収縮し次の段階の原子エネルギーの核反応へとつながっていく。
 現在の太陽の成長段階で、原子エネルギーの核反応を継続すると、太陽系が崩壊するような事態になっていったのかもしれない。

 それで、「かぐつち神」の活動を止める必要が生じたのかもしれない。

「かくつち神」が活動している時代は、人体をもった神々はまだ登場していないので、神々は山や川や海やマグマや天体に足場を組んで御活動されたのだろう。

 神界には、「かくつち神」が書かれた文字がたくさん残されている。

 また現実界には「核エネルギー」もふんだんに残されている。

 今から300万年前、天照大神と須佐之男命の天之誓約の時、お二方の神々の協議によって、人体をもった神々を創る必要性が確認され、琵琶湖を中心に天津神系の人体を持った神々、国津神系の人体を持った神々が降臨された。
 この時代に、太陽神界から降臨されている神がいるし、天王星から降臨されている神がいる。さらに金星や木星からもそれぞれの神々が降臨されている。同じ流れで、太陽系外縁部の惑星からも神々の降臨があったようだ。

 天という宇宙があって、地という宇宙がある。

 地という宇宙の中心は地球と定められており、この地球のあり方が大宇宙の命運を左右してしまうダイナミックな神々の活動があった時代だ。

 300万年前、天照大神と須佐之男命の天之誓約の時に様々な協議がなされた。

 天ノ誓約での協議を踏まえて、天照大神が須佐之男命に高天原の改革を要請した。
 須佐之男命はその要請を受諾したのだが、改革が成功する保証がない。
 伊邪那岐命と伊邪那美命の千引の岩戸が閉められており、結霊(むすび)の働きをされる伊邪那美命の御神力を期待できないのだ。
 高天原の改革を断固やり遂げるために、天津神系や国津神系の人体をもった神々の他に、お土と木からの人体の創造も願った。
 諸問題の根源を多角的に分析する必要があったのだ。
 これが、アダムとイブの誕生へとつながっていく日本神界での物語のいきさつである。
 アダムとイブはアフリカで生まれたとされるが、その端緒は日本の白山において人間が生み出されたことによる。
 人間を教化し導くものとして猿田彦大神が特別に誕生した。
 猿田彦大神の使命は、人間を伊勢大神へ導くことだ。
 猿田彦大神の誕生は180万年前と推定されるので、日本での人間の誕生も同じくらいなのだろう。

 かくして、人体をもつ神々の系統は2系統誕生することになった。

 2系統の人体が誕生するころ、天照大神は天之岩戸に籠られた。
 須佐之男命が天之機屋に天之渕駒を落下させて天意を問うた結果、
「258万年の間(歳差運動の100年間)、天照大神が岩戸に入られることが示された」
「258万年後の状況を見極めて、須佐之男命が天照大神の岩戸の前に立ち、岩戸を開かれる」
 という約束が交わされた。

 この258万年の間(歳差運動の100年間)、天と地の心ある神々は苦労の連続であったろう。

 神々の水と火によって誕生した神系の人体(天津神系と国津神系がある)、これを日本では「〇○の命(みこと)」と呼び、さらに君(きみ)系と臣(おみ)系に分かれる。
 大地の土と木に神の息をいれて創造された人間、これを日本では「たみ(民)」と呼ぶ。
 日本では神系の人体の「〇○の命(みこと)」と「たみ(民)」との婚姻は禁止されていたのだが、その禁は白山で破られて、「〇○の命(みこと)」と「たみ(民)」の混血という問題が生じることになった。
 これが日本神界に邪気や邪心や嫉妬を惹き起こす端緒になった。
 これは白山のある神が「たみ(民)」である美人の女性を見初めて結婚してしまったことから、神系の規範が緩み、さらに「たみ(民)」の側に嫉妬や野心を引き起こすことになってしまったのだ。
 『聖書』に記述されるエロヒムと人間の娘との結婚という問題は、実は日本でも150万年前に問題になっていたのだ。

 258万年の間(歳差運動の100年間)、天でも地でもひたすらに耐えなければならない隠忍時代だった。

 258万年の間(歳差運動の100年間)、天の側に不都合な現実が頻繁に現れてくるのだが、この期間は天の神々ですら対処できない「特別な期間」とされた。
 天の側の不都合な律法が、地の側に頻繁に降ろされて行った。
 地の側では天の律法に絶対服従が神律であるので、グッと堪えて厳格に対処せざるを得なかった。

 地の側でも、258万年の時を無事に過ごし、神界の再興する方策が模索された。

 258万年の間(歳差運動の100年間)、天照大神に連なる天の神々も、須佐之男命に連なる地の神々も「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍」ばなければならない期間であった。

 「次の時代へ向けての動いてヨシ」と示されたのが、ノアの洪水をもたらした天の表われだったろう。

 太陽フレアーの暴発あり、隕石の接近や墜落あり、活発な火山活動があり、天文学的な複合的な要因が重なってノアの洪水が起こった。

 この時の天の配置や天体事象の顕れが、天の側の合図になった。

 須佐之男命が中心となって、ノアの洪水に至る経緯、並びに復興状況を258万年の歴史に照らして検証されたのだろう。
 500万年以上前に誕生した読み国(黄泉国)の状況も踏まえて検討された。
 検証に7000年かけ、そして、6000年前に方針が決定された。

 それは、千引の岩戸閉めの原因となった「かくつち神」の力を利用するという決定だった。

 「かくつち神」は伊邪那岐命に切り刻まれたといっても、神霊界には「かくつち神」が残された文字の断片がまだたくさん残っている。
 さらに、現実界には「かぐつち神」が関与する核エネルギーもふんだんに残っている。

 この文字の力と核の力を用いることになった。

 伊邪那岐命と伊邪那美命の統治が崩壊する直接的な原因となった「文字」の力を用いるのだ。
 500万年以上前に、「かくつち神」が文字で伝えたかった内容を、音の響きと意味合いから探れる民族の創出することになった。

 これが日本民族である。

 日本民族にとって大事なのは、文字のもつ響きや意味合いだ。
 この本来的な文字のもつ響きや意味合いを担保するため、日本では何種類もの神代文字が考案されている。
 音の発声が保たれるように、50音表やいろは歌やひふみ祝詞やあわ歌が大事にされてきた。
 こうして、文字の響きの大切さが説かれてきたのだ。

 文字の響きや共鳴を大事にするので、協調の風習が必然的に生まれる。

 さらに、「かくつち神」が伝えた文字を厳密に再現し、厳格に伝える民族を創出されることになった。
 須佐之男命のこの要望を聞いてくれる人物がなかなか現れてくれなくて、須佐之男命もご苦労されたようだ。ついに、アブラハムが、神霊界に伝えられている「かくつち神」の文字を厳密に再現し、厳格に伝える人物として立ち現れてくれた。
 これが22文字のアルフベートからなるヘブライ語である。
 ヘブライ語は言語でありながら、遺伝子のようなものだ。

 遺伝子を簡単に変更したら、人間がおかしくなってしまう。

 この理屈で、『旧約聖書』として記述されたことを、一言一句たりとも変更を加えることを許されない、・・・はずである。
 日本の『古事記』は文字ではなく、音と意味が分かるような工夫が施されていて、音と意味合いを厳格に伝える。
 時代時代にあった音と意味が伝わる工夫がそれぞれの時代でなされればよくて、文字に対しては寛容だが、発声については厳しい。
 発声と意味合いについては、「そのまま伝えよ」と厳命されている。

 日本語とヘブライ語を合わせるとまるで鐘のようだ。

あいう  響きの外鐘が日本民族にあり、外鐘を鳴らす打ちリンがユダヤ民族にある。
 打ちリンと外側の鐘の部分が別々に鍛えられているかのように見える。
 神々の活動を「文字」の中に落とし込み、文字や名がないと神の力を発揮できないようにされたのだ。
 文字の力を与えられて、初めて神としての働きを得ることが出来るようになった。
 裏を返せば、神代の文字で書かれた記述を丹念に読み解けば、問題点が何か、追求する人は誰でもわかるようになったということでもある。
 この新しい神代の特徴が、今から6000年前に須佐之男命によって決められたのである。

「創世記」アダムとイヴは6000年前

 日本神話の「かくつち神」に焦点を合わせて考えてきた。
 アダムとイヴが誕生してから6,000年という風にも読み込めるのは、
 アダムとイブの子孫に文字が与えられて、これまでの記録が残すことを許されるようになってからの時間進行だ、ということが判った。
 アダムとイヴの子孫に紀元前4000年前に文字(ヘブライ語の元言語)が与えられ、これまでの歴史を文字に残すことを許される時期があったのだろう。
 ちょうど6日間かけて、文字で歴史が伝えられたのだろう。
 これが「創世記」第一の日から第六の日の内容である。
 そして、第七の日は休みにしたのだ。
 現代の学校教育のような事が紀元前4,000年前に始まったのだ。
 ユダヤ人にとって、文字(文章)で記録される歴史が紀元前4,000年前から始まり、ノアの洪水の出来事は、文字での記録が始まって紀元前2370年前ごろに記録されたのだろう。
 だから、ヘブライ語で天地創成が記録されたのは、紀元前4000年前のことであり、アダムとイブが誕生したのも、同じ紀元前4000年前のことになった。
 須佐之男命が練りに練って、アダムとイヴの子孫に文字で記録に残させていったのだ。
 記録という文字のなかで生命を吹き込んだのだ。  

 こうしてアブラハムの記述の時に、伝承されてきた記録と現実の記録が重なった。

 アダムとイヴの記録が残された。
 ヘビの記録も残された。
 カインとアベルの記録も残された。
 ノアの洪水の記録も残された。
 ソドムとゴモラの記録も残された。
 アブラハムとロトの記録も残された。
 ハガルとサラの記録も残された。
 いけにえに捧げられるイサクの記録も残された。
 エサウとヤコブの記録も残された。
 レアとラケルの父であるラバンとヤコブの記録も残された。

 ヤコブの子・ヨゼフが奴隷として売られる記録も残された。

 日本神話の「かくつち神」の残された文字に染み込んだ「神代の念・思い」の洗い出しにかかったのだ。
 美味しそうだという体慾に溺れ神との約束を破り、嫉妬に溺れ、世も末という状況を体験してもなお嫉妬に囚われ、信仰心を試される、ウソで長子の特権を奪い、ウソで祝福も奪う、それで苦難に見舞われ、さらに神に対する信仰心を試され、大きな困難に落とされていく。
 非常に困難な御神業をユダヤ民族は引き受けてくれている。

 とうとう天の時は来たのだ。

 日本神話から『旧約聖書』を説かない限り、『旧約聖書』の岩戸は閉められたままである。

「創世記」アダムとイヴは6000年前

〔1-24〕 神はまた言われた、
「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。
 そのようになった。
〔1-25〕 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
〔1-26〕 神はまた言われた、
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
〔1-27〕 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
〔1-28〕 神は彼らを祝福して言われた、
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
〔1-29〕 神はまた言われた、
「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
〔1-30〕 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。
 そのようになった。
〔1-31〕 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
 夕となり、また朝となった。

 第六日である。

〔2-7〕 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
〔2-8〕 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
〔2-9〕 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
〔2-10〕 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分れて四つの川となっていた。
〔2-11〕 その第一の名はピションといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
〔2-12〕 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
〔2-13〕 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
〔2-14〕 第三の川の名はチグリス7といい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユ-フラテスである。
〔2-15〕 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
〔2-16〕 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
〔2-17〕 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
〔2-18〕 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
〔2-19〕 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
〔2-20〕 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
〔2-21〕 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
〔2-22〕 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 〔2-23〕 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
〔2-24〕 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
〔2-25〕 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

〔03:01〕主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
〔03:02〕女はに答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 〔03:03〕でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
〔03:04〕は女に言った。
「決して死ぬことはない。 〔03:05〕それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
〔03:06〕女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 〔03:07〕二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 〔03:08〕その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 〔03:09〕主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
〔03:10〕彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
〔03:11〕神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
〔03:12〕アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
〔03:13〕主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
 女は答えた。
がだましたので、食べてしまいました。」
〔03:14〕主なる神は、に向かって言われた。
「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 〔03:15〕お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
〔03:16〕神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」
〔03:17〕神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 〔03:18〕お前に対しては茨とあざみを生えいでさせる野の草を食べようとするお前に。 〔03:19〕お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
〔03:20〕アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 〔03:21〕主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。 〔03:22〕主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
〔03:23〕主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 〔03:24〕こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

善悪の木は浄化システムだった可能性がある

「善悪の木」というのは浄化システムなっている可能性がある。
 ジェラルド・ポラック博士の水の浄化システム。
 引用先:http://water-memory.jp/WaterScience/pollack.htm
 この親水性表面で「排除層」が形成されるという現象を利用して、2つの応用例がポラック博士によって、示されています。その1つ目は、「排除層」には水以外の物質が入りにくいことを利用して、水を浄化するシステムです。

排除層

排除層

 親水性の素材を使った管を作って、その中に水を通します。
 すると、管の表面近くで「排除層」が形成されます。この「排除層」においては、水に溶けている物質や浮遊している物質は、文字通り排除されていきます。
 そこで、管の表面近くの水を、管の中心付近の水から分離すれば、水を浄化することが可能です。
 ポラック博士によれば、図3に示す簡単な装置を使って、1回のプロセスで不純物が200分の1になったとのことです。
 とうことは、管の中心層は周辺より200倍不純物が多いということだ。
 ジェラルド・ポラック博士の研究に示唆を得て、論を進めてみよう。
 水流を森に集め、森林の樹幹の管を通過させ、さらに森林の中心の果実として外部に抽出されるようになっていたのかもしれない。  ということは、善悪の木というのはエデンという特殊地帯における浄化システムの最終装置だったのかもしれない。  混濁とした大地の気を浄化するためのシステムがイブの体慾によってシステム障害を起こす可能性が出てきたのだろう。  この方法で純化された水は、不純物が除去されているので、物質化学的により純粋なものになりますが、同時に水自身が構造化された形に変わります。すなわちこの方法は、構造化された水を大量に得るためにも使うことができるのです。

 中心層を除去するだけで、不純物を200分の1にすることができる。

エデン

〔2-10〕 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分れて四つの川となっていた。
〔2-11〕 その第一の名はピションといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
〔2-12〕 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
〔2-13〕 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
〔2-14〕 第三の川の名はチグリス7といい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユ-フラテスである。
〔2-15〕 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

あいう

 根の状態を詳しく見てみると、下の構造体のようになっていることがわかります。
 筒状の根で大地の水分を吸い上げます。
 この時の状態が、水中の「音の国」と同じ現象を引き起こします。
 水が筒状の根を通るときに、質量ゼロの「音(フォノン)」が生じるのです。
 この質量ゼロの「音(フォノン)」と質量ゼロの「光(フォトン)」が木の表層で結びつき質量を生じた「光を発しないエバネッセント光子(心の実体)」が生じます。
 この点で、木は命の源であり、「心の実体」の源であるのです。
 これが「根の国」です。

あいう

象徴性であれば、「善悪の木」の意味付けはは置き換え可能だ

 これは「善悪の木」と象徴されているが、置き換えが可能。
 他人が作った果実を取る。
 隣人の畠の収穫を自分のものにする。
 それぞれの時代で拡大解釈できる。

ヘビが提示する論点

(1)神の発言「食べてはいけない、死んではいけないから」

 は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
〔03:02〕女はに答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 〔03:03〕でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

(2)蛇の発言「決して死ぬことはない、食べると神のように善悪を知るものとなる」

 ここで「神の教え」と、「蛇の教え」の2つの教えが存在することになった。

〔03:04〕は女に言った。
「決して死ぬことはない。 〔03:05〕それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

(3)女はおいしそうという体慾にかられて善悪を知る木の実を食べた。

 これ以降、欲望優先の世の中へなっていった。

〔03:06〕女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 〔03:07〕二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 〔03:08〕その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 〔03:09〕主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
〔03:10〕彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
〔03:11〕神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
〔03:12〕アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
〔03:13〕主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
 女は答えた。
がだましたので、食べてしまいました。」

(現実)さて知識のある蛇はウソを言っていることになるのだろうか?

「死なないのなら食べよう」
 という風に「蛇の教え」受け入れた。
 実際にアダムとイヴは死んではいない。

ひふみ神示

ひふみ神示 第20巻 梅の巻 第十一帖

 世は神界から乱れたのであるぞ、人間界から世建直して、地(くに)の岩戸 人間が開いて見せると云ふ程の気魄なくてならんのざぞ、その気魄 幸(さき)はふのざぞ、岩戸開けるぞ。

ひふみ神示 第24巻 黄金の巻 第十三帖

 神示はちっとも違はん。違ふと思ふことあったら己の心顧みよ。その心 曇ってゐるのであるぞ。めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐりなくなれば神が有難いのぢゃ。人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。判りたか。

ひふみ神示 第24巻 黄金の巻 第二十八帖

 しくじりも人間にはあるぞ。しくじったらやり直せよ。しくじりは火と水の違ひぞ。このことよく心得てなされよ。しくじり、しくじりでなくなるぞ。何も思案投首 一番罪深い。皆それぞれに喜び与へられてゐるでないか。

ひふみ神示 第24巻 黄金の巻 第六十八帖

 神と人の和は神よりなさるものであるぞ。本質的には人間から神に働きかけるものでないぞ。働きかける力は神から出るのであるから人間から和し奉らねばならんのであるぞ。

ヘビに対する呪い

 神に変わって人間に教えを説いた蛇。
〔03:14〕主なる神は、に向かって言われた。
「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 〔03:15〕お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」

神霊界における蛇(ヘビ)の位置は?

 理屈や理論。
 あるいは物事の関連図の連関を示す矢印が蛇(ヘビ)だ。
 全ての知識が細切れになった状態で、その知識の連関を示すものが蛇(ヘビ)となって現れている。
 知識の断片(屁理屈)を使うと、こういう状況になった、という事例集も蛇の集積。

土は呪われるものとなった

〔03:16〕神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」
〔03:17〕神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 〔03:18〕お前に対しては茨とあざみを生えいでさせる野の草を食べようとするお前に。 〔03:19〕お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
〔03:20〕アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 〔03:21〕主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。 〔03:22〕主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
〔03:23〕主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 〔03:24〕こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

なぜ神さまはエデンの園に善悪の知識の木を置かれたのか?

 神さまがエデンの園に善悪の知識の木を置かれたのは、アダムとエバに神さまに従うか背くかの選択を与えるためでした。アダムとエバは、善悪の知識の木から取って食べる以外は、何をしても自由でした。
 創世記2:16−17「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」
 もし、神さまがアダムとエバに選択を与えなかったなら、彼らは本質的にはプログラムされたことだけを行うロボットでした。神さまはアダムとエバを、自分で決定し、善と悪のどちらかを選択できる「自由」な存在として造られました。アダムとエバが本当に自由となるためには、彼らは選択をもたなければならなかったのです。
 木も、その実も本質的に悪だったわけではありません。その実を食べることで本当にアダムとエバにそれまで以上の知識が 与えられたということもありそうなことではありません。不従順の行為がアダムとエバの目を悪に開いたのです。神さまに背いた彼らの罪がこの世界と彼らの人生に罪と悪をもたらしました。その実を食べること、つまり神さまへの不従順の行為がアダムとエバに悪の知識を与えたのです(創世記3:6−7)。
 神さまはアダムとエバに罪を犯して欲しくありませんでした。神さまは、罪の結果が何であるか、前もってご存知でした。神さまはアダムとエバが罪を犯し、それによって悪と苦しみと死とをこの世界にもたらすことを知っておられました。それなら、なぜ神さまはエデンの園に木を置き、サタンがアダムとエバを誘惑することを許可されたのでしょうか?. 神さまは、アダムとエバに選択を与えるためにエデンの園に善悪の知識の木を置かれました。神さまはアダムとエバが選択を迫られるように、サタンが彼らを誘惑することを許可されました。アダムとエバは、自分たちの自由意志で神さまに背いて禁断の実を食べることを選択しました。その結果である悪、罪、苦しみ、病、そして死がそのとき以来この世界を悩まし続けています。アダムとエバの決心のせいでひとりひとりすべての人が罪の性質、つまり罪を犯す傾向があるように生まれてくるという結果を生みました。アダムとエバの決心が、究極的にイエス・キリストが私たちのために十字架で血を流さなければならないようにしました。キリストへの信仰によって、私たちは罪の結末から自由になり、究極的には罪自体から自由になることができます。ローマ7:24−25の使徒パウロのことばを私たちも繰り返そうではありませんか。「私は、ほうんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」

なぜ神は悪の存在を許したか?

(2)なぜ神は悪の存在を許したか?
「神は愛であり善であり、かつ全知全能である」
 とすれば、悪の存在はそのような神の存在を信じる立場に一つの困難を突きつけます。悪の問題は、哲学史上、神の非存在を証明するためにしばしば利用されてきたものです。
 その代表的な例の一つが、つぎのような、デイヴィッド・ヒュームの言葉です。
 いったい、そもそもなぜ、この世界には悪や苦が存在するのだろうか。
 偶然であるわけはない。原因がなければならないはずだ。
 では、神が悪や苦の原因なのだろうか。いや、神は完璧なる愛と善意のお方であるはずだ。では、神の意図に反して、悪や苦は存在しているのだろうか。
 しかし、神は全能ではなかったか。
 (『自然宗教に関する対話』より、佐倉訳)
 つまり、
(a)神のつくった世界に悪や苦が存在する。
(b)神は愛であり善であり、かつ全知全能である。
 という二つの命題は矛盾しており、しかも(a)は事実であるから、(b)は間違っているという結論が導出されるわけです。
 一般に、
「神がいるなら、なぜ不幸な人間をほおっておくのか」
 という議論はもっともよく聞かれる無神論者の理由です。
 このような論理に対する反論は、大きく分けて、次のような二つの立場があると思います。
(c)悪や苦は、神に反逆した人間(や天使)がもたらしたものである。しかし、神は愛であり全知全能であるから、やがて、すべての悪を滅ぼし、人間を救い、理想の世界(神の国)を実現する。
(d)悪や苦の存在を許すことは、もっと広い次元から見れば、善の一部である。悪や苦の可能性のまったくない善より、悪や苦の可能性の存在する善の方が、よりすぐれた善である。
 少々乱暴に分けてしまえば、
(c)はキリスト教の基本的立場であり、
(d)はユダヤ教の立場である、と言えると思います。
 実際は、キリスト教も、神の国という完全な善の世界が到来するまで、一時的に神が悪や苦の存在を許している理由を正当化するために、部分的には(d)の論理を必要とします。また、ユダヤ教においても歴史的に(c)が流行した時期(前2世紀から後1世紀)があります。
(c)はわかりやすいと思いますが、(d)は説明を必要とするかも知れません。
 もっとも一般的な説明は、自由による護教論です。つまり、もし神が悪の可能性を許さぬ世界を造るとしたら、それは人間に自由のない世界でもある。ロボットの世界にすぎない。たとえ悪の可能性があったとしても、自由のある世界の方が、よりすぐれた世界である。いわゆる、「すべての可能な世界のうちで最善の世界」を神が造ったのだ、というライプニッツに代表される論理です。
 これらの護教論は、人間のつくりだす悪については、ある程度の説得力を持ちますが、自然災害については十分に説得力を持ち得ていない、と一般に考えられています。そこで、悪の存在に関する護教論は最終的には、
「神のなされることは人間の知恵にははかりしれないものである」
 というところに逃れてしまうため、論議は行き止まりになってしまうのが現実だと思います。
(3)神の責任
 罪の責任を問うためには、法律の存在が先行しなければなりません。
 つまり、神の存在に先行して、善と悪の基準となる律法がより上位の権威として存在しているのでなければ、神の責任を問うことはできません。ところが、ご存じのように、聖書によれば、律法があって神があるのではなく、神があって律法があるのです。神の意志が善悪の基準なのです。神は律法によって裁かれる者ではなく、神がその意志に従って律法を与えるのです。神は律法の上に立つ権威なのです。したがって、神の責任ということはありえないと思います。聖書の神を認めれば、そういうことにならざるを得ません。
 聖書の神は絶対君主なのです。
 それゆえにこそ、「殺すべからず」という律法を人間にあたえておきながら、おのずからは、殺人を命令することもできるわけです。この神の絶対君主的性格は、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教という、パレスチナで生まれた三大宗教にすべて共通しています。これらの宗教の特徴を生み出した母胎としては、日本の学説の中では、たとえば、和辻哲郎の『風土』に代表されるように、「砂漠の宗教」説が有名ですが、わたしは、そうではなく、すでに他の所でも説明したように(「作者より木村さんへ」参照)、古代イスラエル人とつねに深い関わりのあった、古代メソポタミアや古代エジプトの強大な政治権力との争いの歴史が生み出したものであると考えています。
 絶対君主の権威は法律の権威よりも上位にあるために、絶対君主は法律に縛られていません。
 法律に縛られていなければ、絶対君主を罪の責任に問うわけにはいきません。つまり、わたしたちが、聖書に書いてあるような神を認める限り、神が何をしようが、わたしたちは神を責めることはできません。絶対君主としての神を認めたとき、わたしたちは、同時に、神を責める法的根拠を放棄しているのです。
23対(46本)です。常染色体が22対(44本)で、性染色体が1対(2本)ですね。

『霊主体従』第二巻(丑の巻)総説 アダムとイブ

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 『霊主体従』第二巻(丑の巻)総説 アダムとイブ

 大国治立尊というときは、大宇宙一切をご守護されるときの御神名であり、単に国治立尊と申し上げるときは、大地球上の神霊界を守護されるときの御神名である。

 また、神様が人間の姿となってご活動になったのは、国大立命、稚桜姫命が最初である。
 稚桜姫命は、日月の精を吸引した国祖の息吹から生まれた。また、国大立命は月の精より生まれた。
 人間も、神々の水火から生まれた神系と、天足彦・胞場姫の人間の祖から生まれた人間の二種類の区別がある。
 天足彦・胞場姫も、元は大神の直系から生まれたのであるが、神命に背いたという体主霊従の罪によって、差が生まれたのである。
 現代はいずれの人種も体主霊従の身魂に堕落しており、神界から見た場合には判別ができないほどになっている。

 盤古大神は日の大神の直系であり、太陽界から降誕した。
 日の大神・伊邪那岐命のご油断によって、手のまたを潜り出て、現今でいうと支那の北方に降った。
 温厚な正神である。

 また、大自在天大国彦は、天王星から降臨した。豪勇な神人である。
 いずれもみな、善神界の正しい神であった。しかし地上界に永く住むうちに、天足彦・胞場姫の天命違反によって生じた体主霊従の邪気から生まれた邪霊に憑依され、悪神の行動を取ることになってしまった。

 これが、地上世界が混濁し、俗悪世界となってしまった背景である。
 八王大神常世彦は、盤古大神の水火から出生した神であり、常世の国に霊魂をとどめている。
 常世姫は稚桜姫命の娘であるが、八王大神の妃となった。八王大神の霊に感合し、八王大神以上の悪辣な手段で世界を我意のままに統括しようと、体主霊従的な経綸を画策している。
 八王大神には、天足彦・胞場姫の霊から生まれた八頭八尾の大蛇が憑依している。
 常世姫には金毛九尾白面の悪狐が憑依し、大自在天には六面八臂の邪気が憑依してしまった。
 艮の金神国治立命の神系、盤古大神の系統、大自在天の系統が、地上霊界において、三つ巴となって大活劇を演じることとなった。

『霊主体従』第三巻(寅の巻)第一章 神々の任命

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 第一章 神々の任命

 国治立命は無限絶対の大神力によって大地を創造し、軽く清いものは日月星辰となった。陰陽二神の夫婦が生まれ、天足彦、胞場姫となった。
 天足彦と胞場姫は、宇宙間の邪気が凝った体主霊従の果実を食し、そのために身魂は堕落し、その邪悪の気が凝って八頭八尾の悪竜金毛九尾の悪狐六面八臂の邪神らが発生した。
 この混乱を収めるために、国治立命は豊国姫命を補佐とし、天道別命(モウゼ)とともに天地の律法を制定した。

 この経緯は前巻に述べたとおりである。
 国治立命は天上の三体の神の命により、太陽界に使神となって日天使・国治立命と称した。また豊国姫命は月天使・国大立命と名づけられた。
 日天使の神業は国直姫命に委任された。月天使の神業は豊国姫命に委任された。また天道別命は現界の諸神に律法を宣伝する聖職となった。
 天地の律法をあまねく拡充するために、十六天使が定められ、大八洲彦命が天使長となった。
 十六天使は天上地上を往復して律法を宇宙間に宣伝し、一時は天地ともに太平に治まった。
 しかしふたたび邪神の勃興により、世の中は混乱の巷と化してきた。
 この状況に、国治立命はシオン山に鎮祭していた十二個の玉を大地の各所に配置し、これを国魂の神となした。また八頭神を任命した。

『霊主体従』第一巻(子の巻) アダムとイブ

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 霊界物語 第1巻 霊主体従 子の巻 あらすじ アダムとイブ

 天の大神は、最初に天足彦胞場姫のふたりを造りて、人体の祖となしたまひ、霊主体従の神木体主霊従の果実を実らせ、
『この果実を喰ふべからず』
 と厳命し、その性質のいかんを試みたまうた。
 ふたりは体欲にかられて、つひにその厳命を犯し、神の怒りにふれた。
 これより世界は体主霊従の妖気発生し、神人界に邪悪分子の萠芽を見るにいたつたのである。
 かくいふ時は、人あるひは言はむ。
『神は全智全能にして智徳円満なり。なんぞ体主霊従の萌芽を刈りとり、さらに霊主体従の人体の祖を改造せざりしや。体主霊従の祖を何ゆゑに放任し、もつて邪悪の世界をつくり、みづからその処置に困むや。ここにいたりて吾人は神の存在と、神力とを疑はざるを得じ』
 とは、実に巧妙にしてもつとも至極な議論である。
 されど神明には、毫末の依怙なく、逆行的神業なし。
 一度手を降したる神業は昨日の今日たり難きがごとく、弓をはなれたる矢の中途に還りきたらざるごとく、ふたたび之を更改するは、天地自然の経緯に背反す。
 ゆゑに神代一代は、これを革正すること能はざるところに儼然たる神の権威をともなふのである。また一度出でたる神勅も、これを更改すべからず。神にしてしばしばその神勅を更改し給ふごときことありとせば、宇宙の秩序はここに全く紊乱し、つひには自由放漫の端を開くをもつてである。古の諺にも『武士の言葉に二言なし』といふ。いはんや、宇宙の大主宰たる、神明においてをやである。
 神諭にも、
『時節には神も叶はぬぞよ。時節を待てば煎豆にも花の咲く時節が参りて、世に落ちてをりた神も、世に出て働く時節が参りたぞよ。時節ほど恐いものの結構なものは無いぞよ、云々』
 と示されたるがごとく、天地の神明も『時』の力のみは、いかんとも為したまふことはできないのである。
 天地剖判の始めより、五十六億七千万年の星霜を経て、いよいよ弥勒出現の暁となり、弥勒の神下生して三界の大革正を成就し、松の世を顕現するため、ここに神柱をたて、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示し、善を勧め、悪を懲し、至仁至愛の教を布き、至治泰平の天則を啓示し、天意のままの善政を天地に拡充したまふ時期に近づいてきたのである。

『ひふみ神示』

◆ ひふみ神示 第18巻 光の巻 / (一火キ) 全八帖  第五帖 (四〇一)

 大臣(おとど)は火と水と二人でよいぞ、ヤとワと申してあろが、ヤ、ワ、は火の中の水、水の中の火であるぞ、後はその手伝いぞ、手足ざぞ、役人 自(おのづか)ら出来るぞ。ヤクはヤクであるぞ、今迄は神国と外国と分れてゐたが、愈々一つにまぜまぜに致してクルクルかき廻してねり直して世界一つにして自ら上下出来て、一つの王で治めるのぢゃぞ。
 人民はお土でこねて、神の息入れてつくったものであるから、もう、どうにも人間の力では出来ん様になったら お地(つち)に呼びかけよ、お地(つち)にまつろへよ、お地(つち)は親であるから親の懐(ふところ)に帰りて来いよ、嬉し嬉しの元のキよみがへるぞ、百姓から出直せよ。
 ミロク様とはマコトのアマテラススメラ太神様のことでござるぞ。

◆ ひふみ神示 第18巻 光の巻 / (一火キ) 全八帖  第六帖 (四〇二)

 今に世界の臣民人民 誰にも判らん様になりて上げもおろしもならんことになりて来て、これは人民の頭や力でやってゐるのでないのざといふことハッキリして来るのざぞ。何処の国、どんな人民も成程ナアと得心のゆくまでゆすぶるのであるぞ。今度は根本の天の御先祖様の御霊統根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国ユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれく。悪い者殺してしまふて よい者ばかりにすれば、よき世が来るとでも思ふてゐるのか、肉体いくら殺しても魂迄は、人民の力では何うにもならんであろがな。元の霊(たま)まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の霊(たま)に改心させず肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居り乍ら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、霊(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、天地(アメツチ)ぢゃとくどう知らしてあろが。

◆ ひふみ神示 第29巻 秋の巻 第二帖

 人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。
 神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。
 木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。

『三鏡』P87、人間は木から生まれた

 足魂(たるむすび)から生魂(いくむすび)が出る。大きな木が腐って人間が生まれた。あたかも小豆に虫が発生し、クヌギにカブト虫ができ、また栗の木から栗虫ができるようなものである。

『三鏡』P91、人間の創造

 神は、この宇宙を修理個成されるとき、まず樹木を造り、それから人を造られたのである。
 人間は木から生まれさせられたのである。
 そののち獣、鳥、魚、虫の順序にお造りになった。虫のごときは、今日といえどもなお木からわかして造られることがある。いかなる島にでも人間が住んでいるということは、神が諸処において木から人を造られたからである。
 神が土をもって人間を造られたというのは、神がまず土をかためて木を生やし、それから人間を造られたのであって、直接土から造られたというのではない。
 土から木をはやし、木から人間を造られた、その間でも何百万年もかかっている。