岡本三典さんと一緒に|旅のガイドたち|月の光

旅のガイドたち

平成8(1996)年6月11日(火)午後、至恩郷へ最初の訪問

 実加が生れて4ヶ月目に至恩郷に行った。
 カメラを持てるほど豊かではなかったので、画像などの資料はない。
 最初の訪問のとき、折鶴を見せていただいた。
 折鶴
 平成12(2000)年8月4日の封書に入っていた写真の掲載。

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平成14年5月5日(日)午後、至恩郷月の宮で

至恩郷 三重県三重軍菰野町菰野5833-2
月の宮での記念撮影
 至恩郷
 後列左が岡本三典さん(天明夫人)。
 三典さんの右が私の母で清、後列右が子どもたちの母親でむつみ。前列中央が私、亨(とおる)です、おっとこれは失礼。
 〜このスナップはたまたま至恩郷に取材にこられていた方から取ってもらいました。ありがとうございます。

平成19(2007)年7月16日(月曜日)、岡本天明展で

 平成19(2007)年7月16日(月曜日)
渋谷GALLERY6で岡本天明展が開催されていた。
住所:東京都渋谷区松濤1-28-4
 渋谷GALLERY6
 後列左から小2の美穂(みほ)・むつみ・亨(とおる)
 前列左から、小4の展地(てんち)・岡本三典さん・光宮(みや)・小6の実加(みか)

平成21(2009)年6月23日(火曜日)朝方の4時、岡本三典さん永眠

 9月17日(木曜日)、
 9月23日(水)、至恩郷に立ち寄ろうと思って電話をした。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません」
 というメッセージが流れてくる。

 急きょ藤本実千代さんに三典さんの状況を尋ねてみた。

「今年の平成21年6月23日午前4時頃、ご逝去されました。」
 という。
 1917(大正6)年11月9日、京都鴨川端荒神橋のたもとで生まれ、享年92歳でした。
 本名、高木多恵子

『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』(岡本三典著)からの抜粋

日月神示はなぜ岡本天明に降りたか (「超知」ライブラリー) PP73-75

(徳間書店、1996年12月31日初刷り、岡本三典著)

 父が昭和17年に亡くなったので、母と2人で暮らしておりました。
 そうした或る日、次兄が南方から陸軍病院に帰っているとの連絡があったので、見舞いに行ったのです。
 会うと直ぐ兄は、
「おい、神業奉仕しないか?」
 といいます。
「今、しているじゃありませんか」
 と答えると、
「いや、もっと真剣な直接のご奉仕だよ」
 とさらに言うのでした。
 それから三兄に鉄道の家族パスを10日間だしてもらい、岩手県から大坂迄の各地の霊能者達を訪ねて歩きました。兄は車中、いつもガリ版に数字ばかり並んだものを読んでいます。
「それ、どう読むの?何が書いてあるの?」
 と、気になって仕方ありません。それが「一二三」だったのです。その数字を並べた暗号文の様なものの読み方を、2、3行教わったのが、病みつきになったそもそもの原因でした。
 次兄の高木猛雄は陸軍中佐でした。日本を神国なりと固く信じておりましたから、大東亜戦争が苦戦となっている今、神の啓示が出ない筈はないと思って、日本中から勝れた霊能者を探し出し、箱根の「日本精神道場」に集めようとしていました。

 ・・・・・< 中略 >・・・・・

 天明との出会い

 ある時兄から、自分は忙しいので代わりに行って、「 神示」なるものを頂いてくるようにと言われ、私は初めて天明先生宅を訪れることとなりました。
 小田急の「玉川学園前」で下車して少し歩くと、・・・

 ・・・・・< 中略 >・・・・・

 イキナリ、
「神様の研究なんてお止めになった方が良いですよ」
 と言われました。
 兄の使いだと申し上げると、鳩豆のようになっている私を気の毒そうに見ながら、
「困った。神示は、本当は御本人にしか御渡ししないことになっているのですが」
 と、暫く考えておられました。結局、「特別に」と、「二十六番」と書かれたガリ版刷りの御本を渡されました。
 それ迄は、神示がバラバラに出た分だけを写し合っていたのですが、漸く神の許しがあって、基本十二巻迄を五十組だけ謄写印刷出来ることになり、全国から訪れる因縁のミタマにかぎって、それを秘密裡に頂けることになったのでした。当時東大生の石本笙さんという秀才が、天明先生の小さな家に内弟子のように住み込んでいて、きれいに一字も間違えずに、原紙に神示を書いて刷られたのです。このうち十番迄は、ご神前にお供えしておいたところ、霊化して消えてしまったといいます。それで、天明本人の分は十一番目のものでした。日本全国から、自然にいろんな人が訪ねてくると、審神しながら渡されるのです。
 私の頂いた分は、その二十六番目というわけでした。
 この時が、天明と私との初めての運命の出会いであり、この数も大切な数でした。

 以上日月神示はなぜ岡本天明に降りたか (「超知」ライブラリー) PP73-75 より

◆上記引用に関して思うことは2つ。
このうち十番迄は、ご神前にお供えしておいたところ、霊化して消えてしまった
 霊化した神示を体現する人物がいるということ。
 霊化させて、さらに練って人胤としてこの世に落とした。
 10人いてそのうちの一人が代表となるということ。

○「二十六番

 第二十六代継体天皇の「二十六」に重なってくること。
 第二十六代継体天皇は、武烈天皇の皇子が中央の政争に破れ高熊山に隠れ住んだため行方不明になって探せなくなって「代わって」皇位に就かれた。
 同じように三典さんも次兄の高木猛雄に「代わって」「二十六番目」の神示を受け取られている。

平成21(2009)年9月17日(木曜日)に藤本実千代さんから

「今年の平成21年6月23日午前4時頃、ご逝去されました。」
 と聞かされる。
 1917(大正6)年11月17日生まれ、享年92歳でした。

◆三典さんが逝去された平成21(2009)年6月23日(火曜日)の私の記録

 朝自宅を出る時の声だ。
「ここまで来たら高龗神の影響は少なくなったと心得よ。」

 本当なら嬉しいが・・

○上の記録は、三典さんは高龗神(たかおかみのかみ)に深く関わっているということ、

 さらに、高龗神(たかおかみのかみ)は第26代継体天皇が祀られている足羽山に深く関わっているということでもある。
 『ひふみ神示』の初発から「二十六」は高龗神(たかおかみのかみ)や第26代継体天皇が想定されていたかのように思える。

平成22(2010)年1月23日に福井県福井市の足羽山の編集中に整理しておきたくて。

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