第三神殿の建設の預言
下の記事を参考にしています。
http://thedayofthelord.hatenablog.com/entry/2017/04/10/211541
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第一神殿と呼ばれるソロモン神殿(紀元前10世紀中頃から紀元前587年まで)
ソロモン神殿(第一神殿)とは、ヘブライ語聖書によるとネブカドネザル2世によるエルサレム攻囲戦 (紀元前587年)で破壊されるまでエルサレムにあった聖なる神殿である。その後建てられる神殿と区別し、第一神殿(ソロモン神殿)と呼ばれる。
ヘブライ語聖書によると、紀元前10世紀中頃のイスラエル・ユダ連合王国のソロモン王のもと建設され、ユダ王国の時代にはヤハウェ神を奉じ、契約の箱が納められたされる。
ソロモンがイスラエルを支配してから4年目に建設を始め7年後に完成したとされる。
ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは「寺院は建てられてから四百十年六月十日後に焼かれた」と述べている。
ソロモン王と友好関係にあったティルス王ヒラムからは、レバノン杉などの提供があった。
考古・聖書学者のイスラエル・フィンケルシュタインによると、フェニキアの建物に酷似していることから、フェニキア人が設計に関与しているとしている。
紀元前6世紀になると、ソロモン神殿のあった神殿の丘に第二神殿が再建された。
ヘブライ語聖書によると、紀元前10世紀中頃のイスラエル・ユダ連合王国のソロモン王のもと建設され、ユダ王国の時代にはヤハウェ神を奉じ、契約の箱が納められたされる。
ソロモンがイスラエルを支配してから4年目に建設を始め7年後に完成したとされる。
ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは「寺院は建てられてから四百十年六月十日後に焼かれた」と述べている。
ソロモン王と友好関係にあったティルス王ヒラムからは、レバノン杉などの提供があった。
考古・聖書学者のイスラエル・フィンケルシュタインによると、フェニキアの建物に酷似していることから、フェニキア人が設計に関与しているとしている。
紀元前6世紀になると、ソロモン神殿のあった神殿の丘に第二神殿が再建された。
第二神殿(エルサレム神殿)の存続期間、紀元前516年から紀元後70年まで
第二神殿(エルサレム神殿)とは、紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレムの神殿の丘に建っていたユダヤ人の重要な神殿である。
第二神殿(エルサレム神殿)は紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設された。
紀元前538年にアケメネス朝ペルシャの王位を継承したキュロス2世は、エルサレム市街地の復興とエルサレム神殿の再建を行った人物の有力な候補である。
聖書によると、ユダヤ人がキュロス2世の命令によってバビロン捕囚から解放されエルサレムに戻った際、ユダヤ人たちがバビロンに捕囚されていたおよそ70年の間破壊されたまま放置されていたソロモンの第一神殿があった場所で神殿の建設が始まった。
ユダヤ人が捕囚されて空白となったエルサレムに別の場所から移住してきた他民族が神殿の建設に反対したため比較的短期間の休止があったものの、紀元前521年、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世の下で神殿の建設は再開され、紀元前517もしくは518年、ダレイオス1世の統治6年目の間に完成し、神殿で奉献式が行われた。
紀元前20年から19年の辺りでヘロデ大王は第二神殿の修繕と大拡張工事を行い、それはヘロデ神殿として知られる。
古典的なラビ文学(英語版)は第二神殿が420年間立っていたと述べられており、2世紀に書かれた年代誌である en:Seder Olam Rabbah に基くと非宗教的な推定よりも166年遅い(en:Missing years (Jewish calendar))紀元前350年(3408 AM(創世紀元、世界創造紀元の一種))に建設されて70年 (3829 AM)に破壊されたとされる。
聖書の記述によると、聖遺物の一部は第一神殿の破壊の後失われ、第二神殿では以下の物品が欠如していた。
(1)契約の箱(モーセの十戒の書かれた石版、マナの壷、アロンの杖を含む)
(2)ウリムとトンミム(英語版)(さばきの胸当(英語版)を含む)
(3)聖油(英語版)
紀元前515年の第二神殿が建設されてから70年にローマ帝国によって破壊されるまでの間、第二神殿は大きな歴史の変動および、後の西洋やアラブの宗教に多大な影響を及ぼす重要な宗教的変化の舞台であった。聖書の権威や、法および宗教的道徳の中心的役割(ノアの法)、シナゴーグ、黙示録的な預言の起源は全てこの期間のユダヤ教で発達したものである。
第二神殿(エルサレム神殿)は紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設された。
紀元前538年にアケメネス朝ペルシャの王位を継承したキュロス2世は、エルサレム市街地の復興とエルサレム神殿の再建を行った人物の有力な候補である。
聖書によると、ユダヤ人がキュロス2世の命令によってバビロン捕囚から解放されエルサレムに戻った際、ユダヤ人たちがバビロンに捕囚されていたおよそ70年の間破壊されたまま放置されていたソロモンの第一神殿があった場所で神殿の建設が始まった。
ユダヤ人が捕囚されて空白となったエルサレムに別の場所から移住してきた他民族が神殿の建設に反対したため比較的短期間の休止があったものの、紀元前521年、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世の下で神殿の建設は再開され、紀元前517もしくは518年、ダレイオス1世の統治6年目の間に完成し、神殿で奉献式が行われた。
紀元前20年から19年の辺りでヘロデ大王は第二神殿の修繕と大拡張工事を行い、それはヘロデ神殿として知られる。
古典的なラビ文学(英語版)は第二神殿が420年間立っていたと述べられており、2世紀に書かれた年代誌である en:Seder Olam Rabbah に基くと非宗教的な推定よりも166年遅い(en:Missing years (Jewish calendar))紀元前350年(3408 AM(創世紀元、世界創造紀元の一種))に建設されて70年 (3829 AM)に破壊されたとされる。
聖書の記述によると、聖遺物の一部は第一神殿の破壊の後失われ、第二神殿では以下の物品が欠如していた。
(1)契約の箱(モーセの十戒の書かれた石版、マナの壷、アロンの杖を含む)
(2)ウリムとトンミム(英語版)(さばきの胸当(英語版)を含む)
(3)聖油(英語版)
(4)神聖な炎
ユダヤ人の伝統によれば第二神殿には、はじめに存在していたシェキナ(英語版)および聖霊 (ユダヤ教)(英語版)が不足していた。紀元前515年の第二神殿が建設されてから70年にローマ帝国によって破壊されるまでの間、第二神殿は大きな歴史の変動および、後の西洋やアラブの宗教に多大な影響を及ぼす重要な宗教的変化の舞台であった。聖書の権威や、法および宗教的道徳の中心的役割(ノアの法)、シナゴーグ、黙示録的な預言の起源は全てこの期間のユダヤ教で発達したものである。
イスラム教の岩のドーム
イスラム教の先達ともいうべきユダヤ教、キリスト教の一神教をはぐくんだ聖地エルサレムは、イスラム教勃興以後、イスラム勢力が政権を握り、多くのイスラム教徒が他の一神教と共存するようになった。
しかし、これら三つの一神教によるエルサレムを巡る紛争に象徴されるように、この土地は宗教間の対立が絶えなかった。
岩のドームはかつてのエルサレム神殿内にあり、建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが685年から688年の間のいつの時点かに建設を思い立ったことに始まり、688年に着工した。
当時、イスラム最高の聖地メッカはアリー・イブン=アビー=ターリブ(第4代正統カリフ・アリー)を支持するイブン・アッ・ズバイルによって制圧されており、それが岩のドーム建設の直接の動機であったと推察される。
建物は、預言者ムハンマドが夜の旅(イスラー)に旅立ち、また、アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した。
外部は大理石と美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されているが、これは1554年にオスマン帝国のスレイマン1世の命によって建築家ミマール・スィナンが貼り直したもので、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクであった。
ドーム部分は内部装飾も含めて11世紀に再建されたものだが、これはほぼ創建当時のままのデザインである。
しかし、これら三つの一神教によるエルサレムを巡る紛争に象徴されるように、この土地は宗教間の対立が絶えなかった。
岩のドームはかつてのエルサレム神殿内にあり、建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが685年から688年の間のいつの時点かに建設を思い立ったことに始まり、688年に着工した。
当時、イスラム最高の聖地メッカはアリー・イブン=アビー=ターリブ(第4代正統カリフ・アリー)を支持するイブン・アッ・ズバイルによって制圧されており、それが岩のドーム建設の直接の動機であったと推察される。
建物は、預言者ムハンマドが夜の旅(イスラー)に旅立ち、また、アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した。
外部は大理石と美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されているが、これは1554年にオスマン帝国のスレイマン1世の命によって建築家ミマール・スィナンが貼り直したもので、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクであった。
ドーム部分は内部装飾も含めて11世紀に再建されたものだが、これはほぼ創建当時のままのデザインである。
神殿の丘のゴールデンゲート

神殿の丘には、オリーブ山側の東向きの門から入ったと思われます。
神殿の丘にはGolden Gateと呼ばれる門が残っています。
何度か開けたり閉めたりしてたようですが、1541年にオスマン帝国によって再建された城壁と共に閉じられて、現在に至っているそうです。
エゼキエル 44:1-3 の預言には第二神殿についてこう書かれています。
エゼキエル 44:1 こうして、彼はわたしを連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった。エゼキエル 44:2 彼はわたしに言った、
「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれもはいってはならない。イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ。
エゼキエル 44:3 ただ君たる者だけが、この内に座し、主の前でパンを食し、門の廊を通ってはいり、またそこから外に出よ」。
そのときの神殿の東側の外の門は閉じられているようです。
さらに重要な情報として「イスラエルの神、主が、ここからはいった」とあります。ソロモン時代の神殿の入り口は東向きであり、聖所は西側にあった。
さらにエゼキエル8:16から、ソロモン時代の神殿の入り口は東向きであり、聖所は西側にあったことがわかります。エゼキエル_8:16 彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。
神殿の敷地(※外の庭を除く)はエゼキエル書の記述を元に図示してみると200*100キュビトぐらいみたいです。

Rev_11:2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。
さて、神殿の丘にはイスラム教の聖地となっている岩のドームがあるから建てられないという話がありますが、過去の神殿が聖書の記述通りの位置に建っていたとしたら、岩のドームを破壊する必要はないんですね。まあ壊れるかもしれないですが。
患難時代の神殿の丘についての「聖所の外の庭は異邦人に与えられている」という預言もその通り現在イスラム教に与えられてるわけですね。
黙示録11章
Rev 11:1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。
隠された丘〜神殿があった本当の場所?
【参考】https://ameblo.jp/ech0ech0/entry-12352563224.html
紀元前515年頃、エルサレムに戻ることが出来たバビロニアを脱出したバビロニア人以外とイスラエル人達は、破壊された第一神殿の上に第二神殿を建てるよう指示されました。この第二神殿は、ソロモンの第一神殿ほど素晴らしくはありませんでした。
紀元前20年ヘロデ王が第二神殿の改装と拡張を開始しました。
紀元後70年、ユダヤ人とローマ帝国間で起こったユダヤ戦争によって、再び神殿が破壊されました。「エゼキエル書」(前597年バヴィロン捕囚)に記されているように、今日多くのユダヤ教徒やキリスト教徒たちは、第三神殿が再建されるだろうと予想しています。
預言によれば、ソロモンとヘロデ神殿のある同じ場所に再建されなければなりません。
マタイ24:2 ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません
ボブ・コルヌクが数年前にソロモンとヘロデ神殿の本当の場所を探し始めた頃、彼はマタイ24章を読んでいました。マタイ24:2
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
−エウセビオス(3世紀歴史家)−
「シオンとエルサレムと呼ばれる丘、そこにある建物、そのいわゆる神殿は完全に取り除かれ、或いは揺り動かされる。」−マサダの司令官エリアザル・ベン・ジャール−
マサダの司令官エリアザル・ベン・ジャールは、「エルサレムは現在基盤がなくなり、何も残っていませんが、その記念碑が残されています。それは、まだその遺跡に残っている破壊されたローマ人の収容所を意味します」
と伝えています。
神殿の丘はダビデの町なのだ、とビデオは伝える
ビデオでは歴史的に見て、やはり、現在伝統的に言われている神殿の丘は本当の場所でなく、実はダビデの町がそうなのだと結論付けています。サムエルU5:9
こうしてダビデはこの要害を住まいとして、これをダビデの町と呼んだ。ダビデはミロから内側にかけて、回りに城壁を建てた。サムエルU24:18
その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上っていって、主のために祭壇を築きなさい。」
歴代誌U3:1
こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現されたところ、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。ダビデの町は、またシオンとも言われています。
サムエルU5:7
しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。3世紀の歴史家エウセビオス
3世紀の歴史家エウセビオスは、神殿はシオンだと書いています。「シオン、またエルサレムと呼ばれる丘、そこにある建物、つまり神殿」
ミカ書3:12 シオンは、畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる
1930年代の写真を見つつ、ミカ書の預言を読んでみると、次のように記されています。ミカ書3:12
それゆえ、シオンは、あなたがたのために、畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。
これによると、神殿は耕された畑のようになるとありますが、現在の神殿の丘にはそのような部分は見受けられません。
そして、あの城壁は数千年前からあそこにあります。
そういった点も踏まえつつ、考古学者達はダビデの町を発掘調査しています。
列王記T8:1
そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上るためであった。少し知られている歴史記述
少し知られている歴史記述には、2つの覆われた回廊が北のアントニアの要塞と南のヘロデ神殿の間に600フィート(約183m)拡張してあったとあります。歴史家ヨセフス
歴史家ヨセフスはそのことについて説明しています。「さて、アントニアの塔についてですが、それは神殿の中庭の2つの回廊の隅、西と北に置かれていました。」
そして彼は、それからアントニアは神殿の守衛塔で、より高い丘に位置していました。
これらの説明で、要塞は神殿の丘より高い場所にあり、神殿は600フィート南の標高が低い所にあったことを裏付けています。
使徒行伝
また、使徒行伝にそのことを証明する話が出てきます。"At once he (the commander) took along some soldiers and centurians and ran down to them."
そして40節にはパウロがどのようにして民衆に語りかけたかを説明しています。
"Poul standing on the stairs ...spoke to them."
これらは、アントニアの要塞の後方に続く階段でした。
列王記T1:38 の ギホンの泉
さて、神殿の場所についての別の手がかりは、ギホンの泉です。列王記T1:38
"So Zadok the priest... had Solomon ride on David's mule, and took him to Gihon."
そこで、祭司ツァドク...ソロモンをダビデ王の雌騾馬に乗せ、彼を連れてギホンへ行った。
列王記T8:63 の 洗浄するために大量の水
ソロモンは主へのいけにえとして和解のいけにえを奉げた。すなわち牛二万二千頭と羊十二万頭。生贄を奉げた後の始末には洗浄するために大量の水が必要でした。
ローマの歴史家タキトゥス
ローマの歴史家タキトゥスは、神殿には「無尽蔵の泉があった」と語っています。神を礼拝するために神殿に入る前に祭司は、きれいな水で体を完全に洗い清めなければなりませんでした。
それがギホンの泉の水だったのです。
これらの事を踏まえても、現在神殿の丘と呼ばれている場所は、全くもって真の神殿の丘とはいえないのです。ギホンの泉が流れるのは、この場所なのです。
ダビデ王よりも800年以前に人々は、ここを礼拝場所として利用し、紀元前7世紀の初めから8世紀の終わりまで使っていました。
これが、ダビデの町として知られる唯一の場所です。
最近考古学者等によって、生贄の動物を切った時に出る血を流す溝や、その動物を繋ぎとめておく穴、それに動物の骨の山などが発見されています。
イスラエルの考古学者は、これがソロモン神殿とはっきりと断定してはいませんが、しかし、この場所が何らかの神殿であることは間違いありません。
それが、歴代誌Uに出てくる場所と一致するのです。
歴代誌U3:1
こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤノ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。ルカ8:17
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。
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