平成25(2013)年3月30-31日(土-日)の旅行記録、
大和神社へ御札を納めに参ります
平成24(2012)年3月15日(木)に伊勢市の馬瀬神社の宮司さんに、平成24(2012)年12月25日(火)の段取りをお願いしていたのだが、時間が取れなくて平成25(2013)年3月30日(土)に行くことになった。
平成9(1997)年1月、妻が夢で西金砂神社(茨城県)に来社するようにという暗示的な夢をみた。
そして、平成9(1997)年2月3日の節分に、初めて西金砂神社(茨城県)を参拝に伺った。神社では、西金砂神社(茨城県)の祭神である大己貴命が待っておられて、いろんなお話を聞かせていただいた。
西金砂神社(茨城県)参拝後ほどなく妻の生理が止まり、その年の平成9(1997)年12月25日に展地(てんち)が生まれている。
病院で初めて展地(てんち)を抱き上げたとき、
「この子の15の誕生日に御札を納めに参られよ」と告げられた。
それ以来、御札を納めに行く場所があるはずだし、まずもって、納めるべき御札を頂戴する神社があるはずだ、と考え続けてきた。その神社はどこなのだろうと、と考えつつ日本各地の神社を参拝してきた。
1,500を超える神社の参拝してきたが、2011年まで一向に見当つかなかった。
ところが、昨年2012年の「3.11」に東日本大震災の鎮魂を兼ねて西金砂神社(茨城県)を参拝したとき、山頂本殿にて、白衣を着用された「ある神」が私をまっており、次のように語ってくれた。
「やまとおおくにたまのみこと ここにいます
やまとのくにはつつがなくや 」と。
次に東金砂神社(茨城県)に参拝すると、剣道の白衣の胴衣のようなものを着用し、日の丸の白鉢巻をした「同じ神」が私を迎えてくれ、同じように語られる。「やまとおおくにたまのみこと ここにいます
やまとのくにはつつがなくや 」と。
二つの神社に参拝して、初めて御札を頂戴する神社は、西金砂神社(茨城県)と東金砂神社(茨城県)であることを知り、御札を納める神社は大和神社(おおやまと)であると知ることになった。このことを再確認するために、昨年2012年の夏に西金砂神社(茨城県)と東金砂神社(茨城県)を参拝したとき始めて、神代の昔、国常立尊が神上られたときの御尊骸を奉った山が西金砂山だと知らされたのだった。
8ヶ所で祝詞奏上
►【1ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)、大和神社に御札奉納。►【2ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)、飛鳥宮である可能性のある甘樫丘(あまかしのおか)
►【2ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)、マクモニーグル氏の説に沿って巣山古墳へ。
►【3ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)、宇陀市の水分神社と仏隆寺。
►【0ヶ所】平成25(2013)年3月31日(日)、お墓参りと伊勢神宮参拝。
►【0ヶ所】平成25(2013)年3月31日(日)、伊勢市の宮司さんの管理三社。
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【1ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)大和神社(おおやまと)に御札を納めに参ります
三輪のセブンイレブンで朝食を取って、夜行の疲れを取る。
気持ちを整えて、大和神社(おおやまと)神社に向かった。
大和神社(おおやまと) | 奈良県天理市新泉町星山306 |
「この子が15歳になったら、御札を納めに参られよ」
と言われていた。
15歳というのは、平成24(2012)年12月25日(火)に当たる。
それ以来、どの神社から御札をもらって、どの神社に納めたらいいのか、常に考えるようになった。
平成24(2011)年3月11日に茨城県の西金砂神社に参拝したとき、御札を納める神社は、大和神社(おおやまと)だと確信した。
宮司さんに御札を渡して祝詞を奏上していただいた。
祝詞を奏上してもらっているとき、本殿のほうからしばらく風が吹いてきて、こういうところに神社参拝の妙味がある。こういう風が、神の息吹なのだ。
祝詞奏上後の宮司さんの説明は非常に面白かった。
平成23(2011)年に本殿の立替が行われ、2011年3月10日(木)に宵宮
2011年3月11日(金)に遷座祭
2011年3月12日(土)に後宮
という手順でお祭りを行ったのだが、遷座祭のときにあの「3.11」が発生した。
しかも拝殿の扁額は3日前の3月8日に奉納されて、龍神が津波に飲み込まれながらも天を目指すイメージで描かれているものだったのだという。
このように説明してくれたとき、私は宮司さんに
「西金砂神社の創建記念日は 3.11 なんだよ」と教えてあげた。
鳩が豆鉄砲を食らったように実にキョトンとされていた。神の顕われの不思議さは人知を超えている。
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崇神1年、天鈴621(紀元前97)年第10代崇神天皇の即位。崇神3年に新都として第10代崇神天皇 磯城瑞籬宮伝承地の史貴御県坐神社。
第10代崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていたらしい。
崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。
崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
崇神6年に民が離散し始めた。
そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ宮遷され、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ宮遷された。
崇神7(天鈴627)年2月3日の迹迹日百襲姫の湯立て神事によって神託あり。
崇神7(天鈴627)年10月1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命された。
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〔レ〕「天之沼矛」と「天之逆矛」は、「大和大国魂神」と「大物主神」となって顕れる。
神が人体をもって現れる前の時代、伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みを終えてから、三輪山に「天之沼矛」を「天之逆矛」として納めたようだ。「天之逆矛」として三輪山に納める前に、大和神社に相当する場所に「天之沼矛」を供え祈願されたらしい。
こうした事蹟から、大和神社が「天之沼矛」を象徴し、三輪山が「天之逆矛」を象徴する、ということ成り立つものらしい。
こういう神代の出来事に関連して、平成21(2009)年1月23日(金)・平成21(2009)年1月24日(土)・平成21(2009)年1月25日(日)と3日間続けて、「切っ先を天に向けた巨大な剣」の映像をみたものかもしれない。
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【2ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)甘樫丘(あまかしのおか)
おそらく、ここが、天之火之明尊が飛鳥宮を造営された場所だ。
そういう因縁があるので、時が許さないと立ち入れないのだろうと思っていた。
今回は奈良に来るとき、立ち入っていいかどうかのご神意を伺い、わずかの期間だけ許そうということになっての参拝だ。
甘樫丘(あまかしのおか)から眺める大和三山や三輪山・龍王山・巻向山のロケーションは素晴らしい。
誰だって宮を築きたくなってしまうよ、納得した。
甘樫丘(あまかしのおか) | 奈良県高市郡明日香村豊浦 |
丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。
丘の北側には甘樫丘展望台、南側には河原展望台が整備されており、明日香村内や橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むことができる。
散策路は万葉集などで歌われた植物が植えられた「万葉の植物園路」が整備されている。
この他、芝生広場・休憩所・駐車場なども整備されている。
古くは日本書紀などにも記述が見られ、誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座し、第19代允恭天皇の時に盟神探湯(くかたち)が行われた。
大化の改新以前には蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。
2007年2月1日、東麓遺跡において7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されている。
甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ) | 奈良県高市郡明日香村大字豊浦字寺内626 |
武内宿禰による創建と伝えられる。『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に従五位下甘樫神に従五位上の神階を授けるという記述がある。
延喜式神名帳には「大和国高市郡 甘樫坐神社四座」と記載され、大社に列格、月次・相嘗・新嘗の奉幣に預ると記されている。
推古天皇を主祭神とするようになったのは江戸時代以降のことである。
現在は、推古天皇を主祭神とし、相殿に八幡宮・春日大明神・天照皇大神・八咫烏神・住吉大明神・熊野権現を祀る。
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【2ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)巣山古墳と讃岐神社
『魏志倭人伝』には、マクモニーグルの指摘どおり、卑弥呼の後に宗女・壱与(いよ)が、女王になったことが記されている。
この、巣山古墳(すやまこふん)は「かぐや姫伝承」の讃岐神社の勢力範囲にある。
ということは、金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)の勢力下にあったということだ。
卑弥呼は、神宮皇后と同時代の人物で謎が多いが、今回の参拝でハッキリ自覚できた点がある。第14代仲哀天皇は住吉神の神託に従わないために早死にし、あとを神宮皇后が受けつぐ。
こうなると、神宮皇后をサポートする大物主が男性ではいけないことになってしまった。
このため、神宮皇后を陰ながらサポートする女性が選ばれることになった。
卑弥呼登場の背景には、日本武尊の息子である第14代仲哀天皇への尊敬と神宮皇后の並外れた神通力があったために、大物主として男性を立てることが出来なかったという特殊事情があったようだ。
広陵町の巣山古墳(すやまこふん) | 奈良県北葛城郡広陵町大字三吉元斉音寺 |
なお、1927年(昭和2年)周濠より内側が史跡に指定され、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。
◆ 学研『ムー』No.328号「ジョー・マクモニーグルが邪馬台国と卑弥呼を透視!」2008年3月号 PP35- から。
卑弥呼の墓としてマクモニーグルが指摘したのは、奈良県広陵町の馬見丘陵公園内にある巣山古墳(すやまこふん)だった。・・・・・・・・・・
前回の透視結果に致命的な間違いがあったというのだ。
マクモニーグルによると、卑弥呼の時代のすぐ後に、おそらく卑弥呼の従兄弟の女か姪が、卑弥呼同様に、連合国のリーダーになったというのだ。そして、そのふたりの女王の時代が非常に近いうえ、同じ場所に住んでいたので、ふたりを同一人物と誤認してしまったらしい。
前回の透視結果で、卑弥呼の墓として指定した巣山古墳(すやまこふん)は、卑弥呼の後の時代に女王となった者の墓だったのだ。
『魏志倭人伝』には、マクモニーグルの指摘どおり、卑弥呼の後に宗女・壱与(いよ)が、女王になったことが記されている。なんとマクモニーグルは、それまで見抜いていたのである。
広陵町の讃岐神社 | 奈良県北葛城郡広陵町三吉328 |
式内社で、旧社格は村社。
現在の祭神は、大国魂命・若宇加能売命・大物主命を祀るとしている。
『日本三代実録』元慶7年(883年)12月2日条には「散吉大建命・散吉伊能城神に神階従五位下を授ける」という記述があり、当社の神のこととみられる。
鎮座地名の「三吉」は「みつよし」と読むが、かつては「散吉」と書いて「さぬき」と読んでいた。
一帯は讃岐国の斎部氏が移り住んだ地で、讃岐の故郷の神を勧請し創建したものとみられる。
延喜式神名帳では「大和国広瀬郡 讃岐神社」と記載され、小社に列格している。
広瀬川合(現 廣瀬大社)の若宇加乃売命を勧請したことにより、江戸時代までは「広瀬大明神」「南川合明神」と称していた。
慶長19年(1611年)正月に火災があり、現在の本殿はそのときに再建されたものである。
竹取物語に登場する「竹取の翁」が名を「讃岐造(さぬきのみやつこ)」ということから、これが大和国広瀬郡散吉郷のことであるとして、「竹取物語ゆかりの神社」を称している。
◆ 学研『ムー』No.328号「ジョー・マクモニーグルが邪馬台国と卑弥呼を透視!」2008年3月号 との共時性。
「ジョー・マクモニーグルが邪馬台国と卑弥呼を透視!」の記事の掲載された 学研『ムー』(2008年3月号)は、No.328号であった。それ対して、讃岐神社の住所は「奈良県北葛城郡広陵町三吉328」である。
月に帰る「かぐや姫」の「ムーン」は学研『ムー』
三吉は「3月号」
328は「No.328号」
卑弥呼は故郷に葬られたのなら、卑弥呼の後を継いだ宗女・壱与(いよ)も両親のもとに祀られたのかもしれない。
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グリーンパレス 広陵町奈良県北葛城郡広陵町大字笠168番地
0745−55−5755
ルートイン亀山
〒519-0168
三重県亀山市太岡寺町字下谷1195-9
TEL: 0595-84-7611
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【4ヶ所】平成25(2013)年3月30日(土)宇陀市の3つの水分神社
この旅行記録を作る際に、住所のコピー貼り付けを間違えたものらしい。
上芳野の惣社宇陀水分神社(上社)には、別の参拝機会をつくることにしよう。
下井足の宇陀水分神社(下社) | 奈良県宇陀市榛原下井足635 |
古市場の宇陀水分神社(中社) | 奈良県宇陀市菟田野古市場244-3 |
仏隆寺 | 奈良県宇陀市榛原赤埴(あかばね)1684 |
同じ平成24(2012)年12月8日(土)の夜、室生寺の前にあるお寺(仏隆寺)から何かが現れようとしている。
それを確認するための参拝でもあった。
仏隆寺(ぶつりゅうじ)は奈良県宇陀市榛原赤埴(はいばらあかばね=旧榛原町域)にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は摩尼山。本尊は十一面観音。室生寺の南門として本寺と末寺の関係にある。
空海(弘法大師)が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したといわれ、大和茶発祥の地とされる。 彼岸の頃には約200段もの石段の両側をヒガンバナの花が埋め尽くす。
平安時代前期の嘉祥3年(850年)に空海(弘法大師)の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝わるが、それ以前に奈良・興福寺の修円が創建したともいわれる。
白岩神社 | 奈良県宇陀市榛原赤埴(あかばね)1681 |
龍穴を女陰とする古代性神信仰である。
お隣の仏隆寺さんのお話ですと、石窟は「奈良の興福寺の僧侶の墓」 ということらしい。
上芳野の惣社宇陀水分神社(上社) | 奈良県宇陀市菟田野町上芳野648 |
次回に楽しみにとっておこう。
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【3ヶ所】平成25(2013)年3月31日(日)お墓参りと伊勢神宮参拝
国魂神社で祝詞を奏上し、堤家の菩提寺に向かった。
お墓について車を止めようとしたとき、
ピカっ!
イナズマが走った。
そして、ドロドロ〜っと轟いた。
ビックリしたが、車を降りて堤家のお墓に向かうと、新しい塔婆(とうば)が建っている。
塔婆(とうば)には「菊」の文字が見える。
「オバちゃんかな」
と女房がいう。
「おそらくそうだろう」
と私が応じた。
「カミナリを起こせる人だったということだよ」
と私が言葉を継いだ。
○ このあと香良洲神社に向かった。
香良洲神社へ向かう川沿いのいつもの道が封鎖されお祭りのようになっている。平成25(2013)年3月31日は、香良洲神社の式年遷宮のお木曳き三日目に当たっていたのだ。
もしかするといい場面を見せてもらったのかもしれない。
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【3ヶ所】2013年3月31日(日)伊勢市の大口神社・日和神社・馬瀬神社
雨だったので傘を差しながら私と光宮(みや)だけでの参拝。
それからコンビニで傘を5本購入し、内宮に向かった。
実加が、
「内宮は実加の御宮だから晴れて」
と祈ると、雨が止む。
こういうのも神社周りに妙味だ。
大口神社 | 三重県伊勢市竹ヶ鼻町53-2-2 |
日和神社 | 三重県伊勢市下野町御堂薮325 |
馬瀬神社 | 三重県伊勢市馬瀬町700-1 |
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