大台ケ原から井光を通って宮滝へ・・
大台ケ原から宮滝までの「大和討ち」の時の行程
大台ケ原の牛石ヶ原 | 大迫ダム| 井光神社の里宮 | 岩戸の滝 | 井光神社の奥宮 | 井氷鹿(いひか)の井戸 | 加弥比加尼(かみひかね)の墓 |
御船の滝 | 大塔神社 | 大蔵神社 | 川上鹿塩神社 | 岩神神社 | 十二社神社 | 宮滝
「大和討ち」の時の行程とは別に、神武天皇即位4年、鳥見山霊畤(まつりのにわ)の時の行程がある
阿陀比賣神社 | 川上鹿塩神社 | 大塔神社| 神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑 | 丹生川上神社(中社)の本宮 | 魚見岩 | 神武天皇聖蹟 鳥見山顕彰碑 |
神武天皇、宇陀制圧の前編
宮滝 | 十二社神社 | 宇陀の高城 | 桜実神社| 宇賀神社 | 穿邑顕彰碑 | 三島神社 | 田口の血原橋 | 熊野神社 | 宮城(みやしろ) |
宮滝(宮瀧)から菟田の高城までで神武天皇に関わるかもしれない神社
吉野山口神社 ・ 高鉾神社 | 剣主神社 | 宮奥ダム神武天皇、宇陀制圧の後編
高城岳(たかぎだけ) | 城山(旧、高倉山) | 高角神社(現、高倉山) | 神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑| 笑ヶ嶽 | 屑神社 | 阿紀神社 | 音羽山 | 皇大神社 | 威徳神社(是室山) |
伊奈佐山 | 神武の渕 | 御井神社 | 福地岳 | 墨坂伝承地 | 墨坂神社
| 高龗神社(たかおかみ) | 吉隠川(よなばりがわ) | 慈恩寺佐野 | 生根神社 |
朝原祈祷の5つの伝承地(南から)
神武天皇聖蹟 丹生川上 顕彰碑 | 魚見岩(うおみいわ) | 神部神社(かんべ) | 八坂神社 | 阿紀神社 | 丹生神社(※)参考ページ ⇒ 「神武天皇大和討ち」
神武天皇「大和討ち」ルート
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孔舎衛坂の戦いで敗退 |
龍田越えを試みるがあまりの厳しさに断念。 盾津から孔舎衛坂を越えて、矢田丘陵への道に決定した。 しかし、五瀬尊が傷つき、孔舎衛坂の戦いで敗退し、盾津まで撤退した。 |
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五瀬尊、落命 |
太陽に向かって攻撃をしたために敗戦することになった、と反省。 和歌山を回って伊勢湾へ出るルートを選択。 その途中で五瀬命が落命。 |
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名草戸畔、制圧 | 和歌山県の名草で名草戸畔を鎮圧。 |
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二木島での遭難と丹敷戸畔の制圧 | |
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大台ケ原から宮滝へ |
大台ケ原の牛石ヶ原には魔物を封じたという牛石(うしいし)がある。 そこに神武天皇の立像が立っています。 |
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宮滝から菟田制圧へ | 宮滝から菟田市全域の鎮圧。 |
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生駒で長髄彦の反乱の鎮圧 |
金鵄が神武天皇の弓のはしに止まり、戦いに決着がつく。 |
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2年に渡る戦後処理と橿原即位 |
戦後処理に2年を費やす。 そして、ようやく橿原で即位。 |
大台ケ原から井光を通って宮滝への神武天皇の伝承をたどって・・
玉置山で祭祀をするときは八咫烏の先導があったようである。
伝承では、八咫烏に出会ったのは新宮のコトビキ岩からとなっている。
八咫烏はこのとき新宮にいたのである。
伝承によると、
神武天皇一行は、二木島で遭難した後、新宮から川船で本宮にたどり着き、折立から玉置山に登った。しかし、玉置山から大台ケ原までの区間の伝承は残されていない。
次の大台ケ原、井光(いひか)、五社峠、白倉山、宮滝への伝承は連なっている。
一連の流れは下記の通り
► 【伝承アリ】熊野本宮大社から玉置山まで► (伝承ナシ)玉置山から池原までの区間
► 【伝承アリ】池原から下った薬師湯に伝承がある
► (伝承ナシ)池原から下った薬師湯から大台ケ原まで
► 【伝承アリ】大台ケ原、井光(いひか)、五社峠、白倉山、宮滝への連続的伝承
(※)吉野をめぐって、『日本書紀』と『古事記』の記述の違いが出てくるのは、神武天皇が井光(いかり)に二度来られている(後述)からだろう。【伝承アリ】熊野本宮大社から玉置山まで
神武天皇が玉置神社の玉石の上で祭祀したと伝えられている。
また、熊野川(十津川)を20km程遡った折立には神武天皇が滞在したという伝承がある。
この地から玉置山は最短距離となり、現在も登山道(車道ではない)があり、5kmほどで山頂に着く。
熊野本宮から折立まで、川沿いを1日。折立から玉置神社の地まで半日であろう。
早朝出発した天皇一行は夕方には折立に着き、次の日に玉置山登山をして昼頃には着いたと思われる。
その日午後、玉置山で祭祀を行った後、次の日に出発したと考えられる。
玉置山から池原までの区間(伝承ナシ)
玉置山から笠捨山まで(伝承ナシ)
玉置山から玉置川を下って北山川に出ることは可能であるが、そこから暫くは北山峡と呼ばれている峡谷地帯であり、川沿いに遡るのは不可能と考えられる。玉置山から次の伝承地大台ケ原へ向かうには熊野古道の大峰道に沿った道しか考えられない。
玉置山から笠捨山までは大峰道に沿った経路となる。
玉置山から大峰山脈の尾根に沿って香精山1122m、地蔵岳1250m、笠捨山1300mと続く。その経路約10km。
この経路もほぼ1日で踏破できると思われる。
笠捨山から池原まで(伝承ナシ)
笠捨山から大峰道は北へ回り最大の難所の八剣山1915mを通るのであるが、此処は難所であり、2000m近い標高である。それに大峰道に沿ったのでは、次の伝承地である大台ケ原を通らない。
そのため、笠捨山から山を降りたのではないかと推定する。
笠捨山から笠捨越まで尾根を通り、そこから、東の尾根に沿って下り、次に奥地川に沿って下り浦向に出る。浦向から西川を遡り、寺垣内、池峰、池原と進み、現在の池原貯水池に出る。全行程14kmである。これも約1日であろう。ここは河畔なので、食料調達ができたと思われる。
【伝承アリ】池原から下った薬師湯に伝承がある
狭野命一行の傷病兵を湯治した所と伝えられている。
その時死者があって、近くの天皇塚に葬られたと伝えられている。荒坂津の遭難或いは行軍中に体調を崩し亡くなった人物がいたのであろう。この温泉地に暫く滞在したようである。
薬師湯
北山川沿い上北山村河合に薬師湯(上北山温泉)がある。近くに大きな塚があり「天皇塚」と称えている。
神武天皇が荒坂津から大和へお越しの途中、この温泉を御発見になって、傷病兵の湯治をなされた湯が、この薬師湯であり、また、戦病死者をお葬りになったのが、この塚で、明治維新の頃、何者かがこの塚を発掘しようとした時、稲光と雷鳴が、にわかに激しくなり、その上忽ち豪雨が沛然ときて、その者は狂死したと伝えている。
(少年・神武天皇より)
池原から下った薬師湯から大台ケ原まで(伝承ナシ)
河合から小橡川に沿って遡る。7kmほど進むと木和田という所が在る。そこから、尾根伝いに登山道が存在し、緩やかに登っていくと5kmほどで逆峠1411mに達する。逆峠から3kmほどで経ヶ峰に達する。
このルートが大台ケ原に通じる昔からのルートということである。
神武天皇一行はこのルートを通ったと考えられる。2日ほどの行程であろう。
大台ケ原にある牛石ヶ原
牛が寝ている様な大きな牛石があるので「牛石ヶ原」と云われている。この牛石に魔物を封じ込めたという言い伝えが残っている。ここに、神武天皇の銅像が建っている。当地は神武天皇東征の砌、八咫烏の先導で熊野から北上して来て、国見をされた所と云われている。
北山川の支流に小橡川がある。
その流域に木和田と呼ばれる地が在り、ここは、古来より林業関係者の大台ケ原への入口であった。
現在も登山道が存在している。

【伝承アリ】大台ケ原、井光(いひか)、五社峠、白倉山、宮滝への連続的伝承。
大台ケ原を出発し、大迫ダム周辺を過ぎた辺りで苞苴擔(にへもつ)の子に会ったのか?
大台ケ原で県境越えとなり吉野川流域に入る。経ヶ峰から現在の大台ケ原ドライブウエーに沿って尾根筋を歩き、伯母が峰に出る。
そこから北西方向の尾根に沿って下り、吉野川上流の大迫ダムに出る。
吉野川に沿って下ると北和田に着く。
ここまで約15km。
吉野川で最初に出あったのが、苞苴擔(にへもつ)の子と古事記は伝える。
しかし、苞苴擔(にへもつ)の子に出会った場所は、古事記によると吉野川の川尻(川下)とある。
吉野川の下流であれば位置が大きくずれるので、苞苴擔(にへもつ)の子に会ったのは神武天皇が即位後に吉野に来られた時のことなのではないか。
阿陀
神武天皇が吉野川流域で最初の人・苞苴擔(にへもつ)の子に出会った(古事記)と伝える。はたして現在の和田の地なのだろうか?
大台ケ原から井光まで
吉野川の上流からから川沿いに下り、約3kmで井光川(いひかがわ)との合流点に着く。ここで、井氷鹿(いひか)に出会ったのであろう。
この行程は2日程度であろう。
井光神社
伯母が峰から吉野川を下る途中、対岸の「井光川(いひかがわ)」に沿って上がると、「井氷鹿(いひか)の里」へ着く。そこから500m行った集落の中に鎮座している。
祭神は、国津神の井氷鹿(古事記では井光)で、彼は神武天皇が八咫烏の案内で熊野から大台山を通って、この辺りへ来た時、「古皇(ふるつこ)」「血ノ池」「布穴(ぬのあな)」等と呼ばれる光り輝く奧ノ宮の井戸の様な大きな窪みから出現した尾のある神である。
奥宮・井氷鹿(いひか)の井戸・加弥比加尼(かみひかね)の墓
「井光川」沿いの道から北側へ150m上がり、西の山側にさらに150m行くと、皇祖(神武天皇)巡幸の聖蹟「井氷鹿の井戸」がある。ここが、井光神社に祀られている井氷鹿(いひか)が姿を現した所といわれており、窪地の前に石碑が建っている。
井氷鹿(いひか)は、神武天皇を案内して、土地神谷(とちかみだに)を過ぎて休石(やすみいし)に腰をかけた後、御船山(みふねやま)の尾根にある拝殿で波々迦(ははか)の木を燃やし鹿の骨をもって卦(け)を立てて占い、御船の滝巖上に宮柱を立て天乃羽羽矢(天から授かった矢)を納め、進軍の勝利を祈願したといわれている。
今でも8月24日天の羽羽矢(ははや)納めの儀式がある。
【御船の滝、大塔宮(奥の院)に伝わる伝承】
字御舟山邊り御舟が滝巖上に小祠一社あり、里人呼で大塔と言傳ふ。祭神は井氷鹿の守護神なり。
大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申。神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところなり。
応神天皇以降の諸帝典之乃離宮に御幸毎に皇祖天神を祝祭ありて御狩毎に御舟が巖上の大塔の社へ弓矢を納め賜う祭典あり。今に旧八月朔祭日に當り氏子者竹にて弓矢を携へ参拝するの古例存せり。
此弓矢を拝受し戦に望む事あらば勝利を齎し、猪鹿の耕作物を食ひ荒す處へ建置けば猪鹿荒れずと云ひ傳ふ。
【井光に伝わる神武天皇の東遷経路】
伊波礼毘古命が海を渡って熊野に着きました、そこで健角身命(たけつぬみこと)と云う神様と出会いました。真っ黒な衣を着て木から木へ鳥のように飛び移っていくので、八咫烏の神様と呼ばれています。
その神様は伊波礼毘古命を案内して大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。
鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかると、その井の中より尾のある人が姿を現したものだから伊波礼毘古は驚いてそなたは何者かと聞きました。
すると、私は国津神で、名前は井氷鹿(古事記では井光)ですと云いました。
それからの山道を案内して土地神谷をすぎて休み石に腰をかけた後、御船山の尾根にある拝殿にて波々迦(ははか)の木を燃やし鹿の骨をもって卦(け)を立てて占った上、御船の滝巖上に宮柱を立て天乃羽羽屋を納め進み行く旅の勝利を祈願した後、宇陀を通って橿原へ行かれた。
【伝承アリ】井光から南国栖まで
井光からは川に沿って下り、大滝から五社峠を越えて降りたところが南国栖である。行程12kmでここまで1日であろう。
ここで、石穂押分命の子に出会った。
彼は、衣笠山の頂上より遥かに高見山を指してその付近の情勢を神武天皇に奏上したと伝えられている。
神武天皇はここから、大和への侵入経路を確認したことであろう。
大蔵神社
祭神:大倉比売命、岩押別命、鹿葦津比売命大和志などによれば当社は「延喜式」神名帳に記載の川上鹿塩神社と言われる。
東川村と南国栖村の氏神で、境内には明治初年神宮寺があった。吉野国栖の祖神を祭る。
「神武天皇遥拝所」が近くにある。
この遥拝所は「石穂押分命の子が神武天皇に供奉し、遥かに高見山を指してその付近の情勢を奏上したところ」と言い伝える。
【地図】川上鹿塩神社から大蔵神社

【伝承アリ】南国栖から宮滝まで
南国栖から川沿いに約7km下ると宮滝に着く。神武天皇が大和に侵攻するにはまだ各地に長髄彦の反乱軍が多い。
日向から連れてきた人々の多くは二木島の遭難で失われており、高倉下が人数を多く派遣してくれはしたものの長髄彦の反乱軍を押し切るほどの戦力には程遠い。
幸いにもこの段階で長髄彦の反乱軍にとって神武天皇は消息不明になっており、警戒を解いていたと思われる。長髄彦の反乱軍に所在を知られるのは時間の問題であるが、それまでに、周辺の豪族を長髄彦の反乱軍を鎮圧する方に動かさなければならない。
その本拠地として選んだのが宮滝の地である。
ここに宮を作ることにより、熊野越えは終わる。
全行程約100kmで、10日前後を要したと思われる。
神武天皇は戊午8月2日には兄猾、弟猾を呼んでいるので、7月中には宮滝に着いていたと思われる。戊午8月2日は現在の10月中旬である。
宮滝を拠点として神武天皇は周辺豪族を協力させ、大和進入の準備をするのである。
『日本書紀』と『古事記』の記述の違いは、天皇が井光に二度来られているから
次が紀元前657年(即位4年)天鈴(あすず)61年の鳥見山霊峙(まつりのにわ)の時期であろう。
この2つの事実の混同のため、『日本書紀』と『古事記』では熊野山中を抜けるコースが異なっている。
【日本書紀における熊野山中を抜けるコースは北から南だ】
日本書紀では、宇陀の穿村に到着し、エウカシを誅した後、吉野川沿いで、井氷鹿、石穂押分命の子、苞苴擔(にへもつ)の子と出会ったと記録されている。その出会ったといわれている場所は、井氷鹿(いひか)が吉野郡吉野町飯貝、石穂押分命の子が国栖、苞苴擔(にへもつ)の子と出会った所が、宇智郡阿陀村(五条市阿田町)の地域と考えられている。
この経路は北から南への流れとなっており、実際の神武天皇の南から北への流れとは逆になっている。
また、飯貝、阿田ともにその地域に出会いを裏付ける伝承を伴っていない。
また、蟹井神社に神武天皇が来たとき、五条市近辺にいた反対派の行動をつかんでいるはずであり五条市近辺に立ち寄れるとも思えない。もし、五条市近辺に立ち寄れるならば、蟹井神社から、あるいは和歌山市から紀の川沿いに大和に侵入しているはずである。
このように、順路、伝承の点から推察して明らかに古事記の方が正しいと思われる。
神武天皇は十津川沿いに大和に侵入したという説も存在するが、この経路上に神武天皇通過伝承地は存在せず、また、吉野川沿いに比べてかなり危険なコースである。このような点から考慮すると吉野川沿いのコースが有力となる。
では、日本書紀のコースは一体何なのであろう。
その元となる伝承があったはずである。それを解明するのが、井光神社の伝承である。
井光神社の伝承では
「大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。」(A伝承)とあるが、これは、明らかに南から北への移動である。
その次の具体的な経路を示す伝承は
「鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかる」(B伝承)全ての地名の位置が解明できたわけではないが、合社谷は五社峠、近くには白倉山がある。その後に井光を通っているのであるから、この経路は明らかに北から南への経路となっている。
A伝承が古事記で、B伝承が日本書紀に沿っているのである。
これより、神武天皇は井光に二度来たと解釈される。それを裏付けるのが、奥の院の伝承である。
「大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申。神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し、遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところ」井光の大塔宮に神武天皇がやってきたのは戦いで勝利を治めた後であり、「神武帝皇居」とあるので、天皇に即位した後であると思われる。
おそらく神武天皇4年の鳥見山霊峙の時期に近いのであろう。
この時神武天皇は吉野に宮を構え、大和進入時に協力してくれた豪族たちを訪問して労を労ったものであろう。この時の記録が日本書紀に取り込まれて、古事記と日本書紀の記録の違いを生んだものと判断する。
古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点
神武天皇の大和侵入経路で古来より問題になっているのが、古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点である。川尻とは河口を意味し、五条市付近より紀ノ川の上流を吉野川ということから吉野の川尻とは五条市付近を指すのが一般である。
熊野から五条市へ出るには十津川を遡るルートしかないが、このルートは危険な上に伝承を伴っていないなどの矛盾点もある。
それに対して、天皇即位後に吉野の川尻に出たというのは大変合理的である。
この当時の天皇の宮は柏原の神武天皇社あたりと推定されており、御所市に所属している。
この地から吉野に出るには御所から五条市に抜けるようになり、結果として吉野の川尻に出ることになるのである。
神武天皇が吉野の川尻に出たのは天皇即位4年のことであろう。
井光(いかり)から宮滝までの地図

井光(いかり)の詳細地図
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