平成24(2012)年5月5-6日(土-日)旅行記録、第10代 祟神天皇と三輪山

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平成24(2012)年5月5-6日(土-日)旅行記録、第10代 祟神天皇と三輪山

 平成24(2012)年4月24日(火)の今日は、 いろんなことが切り替わる日だ。
 「システムの予定」も新規に上がってきて、新たなタイムスケジュールになる。

 そういう物事の切り替わりの日に、何かを決めるのはとてもいい事のように思える。

 平成24(2012)年2月12日(日)に天之大神より、
「今から九十日後、国常立尊の鎮座の動きが顕れる」
 と告げられていたので、「九十日後」にあたる5月12日(土)までに、三輪山に登っておきたいと思っていた。
(※)5月12日(土)とは、1995(平成7)年5月12日(金)に亡くなった私の父親の命日でもある。

 連休直前で押し迫っているが、「あの宿」に空きがあったら参拝旅行に行ってみたいと思った。

 連休直前なので、空いていない可能性のほうが極めて高いが、念のために電話してみると、空いているという。
✓ฺ 「グリーンパレス広陵」(奈良県北葛城郡広陵町大字笠168 0745-55-5755 )
 すかさず、平成24(2012)年5月5日(土)に予約を入れた。
 誰かがキャンセルをしてくれたところに、問合せの電話をしたのかもしれない。

 三輪山は、今年平成24(2012)年12月25日(火)の展地15歳の誕生日の前に参拝しておきたい山でもある。

 これまで何度か登る機会はあったのだが、キッチリ調べて気持ちを整理してから登りたかったので、ズ〜っと延ばし延ばしになってしまった。

 19ヶ所で祝詞奏上

►【10ヶ所】平成24(2012)年5月5日(土)、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮の時に三種神宝の分離祭祀。
►【6ヶ所】平成24(2012)年5月5日(土)、三輪山登山、日向神社と高宮神社・奥津磐座。
►【3ヶ所】平成24(2012)年5月6日(日)、第10代祟神天皇陵、第12代景行天皇陵、大直根子、神武天皇后選定。

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〔1〕「天之沼矛」と「天之逆矛」は、「大和大国魂神」と「大物主神」となって顕れる。

逆矛と龍に乗る実加  神が人体をもって現れる前の時代、伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みを終えてから、三輪山に「天之沼矛」を「天之逆矛」として納めたようだ。
 「天之逆矛」として三輪山に納める前に、大和神社に相当する場所に「天之沼矛」を供え祈願されたらしい。
 こうした事蹟から、大和神社が「天之沼矛」を象徴し、三輪山が「天之逆矛」を象徴する、ということ成り立つものらしい。

 こういう神代の出来事に関連して、平成21(2009)年1月23日(金)平成21(2009)年1月24日(土)平成21(2009)年1月25日(日)と3日間続けて、「切っ先を天に向けた巨大な剣」の映像をみたものかもしれない。

平成21(2009)年1月23日(金)、高龗神はどこからやってきたのか?を追求しているときの映像

 平成21(2009)年1月21日(水)から文章化をはじめて1月23日(金)にようやく形になってきた。
 →「高龗神たかおかみのかみ)はどこからやってきたのか?

 「そなたはおそろしいことをしてくる」

 こういう言葉が頭を駆け巡る。
 九頭龍から入って、高龗神(たかおかみのかみ)の考察に入った。
 「そなたはおそろしいことをしてくる」
 「恐ろしさ」を感じてしまうものたちがいるということだろうか?

 切っ先を天に向けた巨大な剣が現れてきて、私は切っ先の上にいる。

 切っ先の上にうまく乗り切れず、両股を引き裂かれそうでツライ。
 大地の大きな穴から突如現れたこの巨大な剣はいったい何なのだ?

平成21(2009)年1月24日(土)、高龗神と三輪山(みわやま)の関係

 1月24日(土)に三輪山(みわやま)と深い関係がありそうだと知る。
 →「高龗神たかおかみのかみ)はどこからやってきたのか?

 「そなたはおそろしいことをしてくる」

 依然として上の言葉が頭を駆け巡っている。

 依然として、切っ先を天に向けた巨大な剣の切っ先の上に私はいる。

 ようやく切っ先の上にうまく乗れるようになった気がする。
 大地の大きな穴から突如現れたこの巨大な剣はいったい何なのだ?
 2日間にわたってこの現象はちょっとツライ。

平成21(2009)年1月25日(日)、切っ先を天に向けた巨大な剣とは・・

 「そなたはおそろしいことをしてくる」
 という声は、切っ先を天に向けた巨大な剣に関係あるのだろうと思っている自分がいる。

「やりとげねばならぬ」

 という声と共に「切っ先を天に向けた巨大な剣」とは天之逆矛(あめのさかほこ)ではないか?
 と突然ひらめいた。

 私が見ている巨大な剣の映像は、「天の逆矛」というサイトの画像に近い。

 ただ私が見ている剣は、白金(しろがね)で透明に輝く気品があり、誰も近づけないようなものなのだ。
 私が近づいているのが不思議なくらいなのだ。

 ここまで整理してくると、

「そなたはおそろしいことをしてくる」
 と、平成21(2009)年1月23日(金)平成21(2009)年1月24日(土)平成21(2009)年1月25日(日)と聞こえていた声がやんだ。
 面白い。

〔2〕神が人体をもって現れた時代、第2代大物主・奇彦命が、天照神から伊邪那岐命と伊邪那美命の国生みのときの「天之沼矛」を「天之逆矛」として賜り、「天之逆矛」をもって三輪山で神上がっている。
 紀元前143万年前のことだ。

 それ以降、三輪山は第2代大物主・奇彦命と「天之逆矛」を祀る山になったらしい。

■『秀真伝(ほつまつたゑ)』上巻 第23巻(PP831-872) が伝える逆矛(さかほこ)

┏ 引用 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

『秀真伝(ほつまつたゑ)』上巻の第23巻では、伊邪那岐尊・伊邪那美尊から天照神が逆矛を賜ひ、天照神から奇杵命(大己貴)の子である恵比寿顔の奇彦命逆矛が引き継がれたと書かれている。
 そのさい、奇杵命(大己貴)の子である恵比寿顔の奇彦命は、天照神から「日本大国御魂神(やまとおおこのみたまかみ)」という名を賜った。
 奇杵命(大己貴)の子である恵比寿顔の奇彦命は、三諸山(みもろやま)に洞穴を掘られ、天照神より賜いし天の逆矛(あめのさかほこ)をひっさげて、お隠れ、お鎮まりになられたのでした。
 その洞にて時を待ち、素直な心の持ち主を見分けようと、山に直(すぐ)なる木である杉をお植えになりました。
 日本大国御魂神(やまとおおこのみたまかみ)は元来、日の輪の分身(わけみ)であり、天照神に次ぐご神徳の神でした。
 (上巻P872)

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 引用 ┛

〔3〕霊筋を間違えてはいけないところなので、何度も何度も同じように確認作業をしている。

 第10代崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていた。
 崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。
 崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
 崇神6年に民が離散し始めた。
 そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ遷宮され、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ遷宮された。

 崇神7(天鈴627)年2月3日の迹迹日百襲姫の湯立て神事によって神託があった。

 第2代大物主の奇彦命の神託によって、
 崇神7(天鈴627)年10月1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命された。

 この第2代大物主の奇彦命の神託によって、「大三輪神」と「大国魂神」の二重化が発生した。

 紀元前143万年前に天之沼矛をもって三輪山で神上がられた第2代大物主奇彦命の讃え名が「大和大国魂神」であったにも関わらず、ここで二重化が生じているとすれば、それをどのように理解しておくべきかが最大の問題になる。

 いつもこの部分で混乱して、前に進めなかったのだ。

 国常立尊の御神剣が、伊邪那岐尊と伊邪那美尊の国生みのときの天之沼矛のような働きとして現れた場合を「大和大国魂神」と呼び、天之逆矛の働きとして現れた場合を「大物主神」と呼ぶ、と捉えることができるのかもしれない。
 天之沼矛とは、伊邪那岐尊と伊邪那美尊の「国生み」という特定に時期に関わる神名だ。
 神が人体をもって現れた時代に、「国生み」に準じるような作用が「大和大国魂神」と認識されてきたのかもしれない。
 天之沼矛は伊邪那岐尊と伊邪那美尊の国生みのとき、シホをコオロコオロとかきならして大地を生みあげるとき使われことから、「大和大国魂神」が立ち現れるときとは、現状をシャッフルして新しい秩序がもたらされるときになるのかもしれない。
 天之逆矛は国生みが安定化しその秩序を保つときに使われたように、「大物主神」は、「大和大国魂神」によってもたらされた状態を安定化させるときに現れる御力なのかもしれない。

 国常立尊の御神剣は、その時々によって現れ方が違うのだろう。

 八重垣剣(叢雲剣)は、八岐大蛇の尾から取り出されたところから、「天之沼矛」や「天之逆矛」とは出自が異なるが、天之沼矛が「天之逆矛」として三輪山に隠れているので、「八重垣剣(叢雲剣)」が「大和大国魂神」の神依代として用いられたようだ。

 倭姫の時代(時代を考察中)、「大和大国魂神」の神依代とされた八重垣剣(叢雲剣)が伊勢神宮へ納められた。
 倭姫の誕生を神託によって告げたのは「大和大国魂神」だった。

 また、「大和大国魂神」は、倭姫に伊勢神宮の千木や鰹木の由来も指導されている。

 こうして、大和神社には神が人体をもって現れた時代の天之沼矛の神格化である「大和大国魂神」の神名だけが留まることになったようだ。

〔4〕三種神宝が別々の祭られ始めた端緒が、崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命だった。

 崇神1年、天鈴621(紀元前97)年第10代崇神天皇の即位。
 崇神3年に新都として史貴御県坐神社の西側にある第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)。

 第10代崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていた。
 崇神4(天鈴624、紀元前94)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。

 崇神4(天鈴624、紀元前94)年とは、神武天皇のときに集まった三種神宝が、分離した年だ。
 神武天皇の即位は「神の世の事柄を一応岩戸に隠されて人皇」として即位されたものなので、大きな岩戸閉めだった。
 第10代崇神天皇4(天鈴624、紀元前94)年の三種神宝の分離祭祀とは、「神の代」から「人の代」へ移ったことの象徴となる出来事といっていいかもしれない。

 三種神宝の分離を決定した宮が、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)だった。

 崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。
 崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶える。
 崇神6年に民が離散し始める。
 そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ遷宮し、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ遷宮する。

 崇神7(天鈴627)年の第2代大物主の奇彦命の神託によって、
 崇神7(天鈴627)年10月1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命された。
 第2代大物主の奇彦命の神託による変更点は、大国魂神の斎主が渟名城入姫から長尾市命(ながおいち)に替わったこと。
 第2代大物主の奇彦命の神託の新しい点は、大三輪神の斎主として大直根子命が選任されたこと。
 第2代大物主の奇彦命の神託の変わらなかった点は、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭ること。( → 檜原神社
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【10ヶ所】平成24(2012)年5月5日(土)
第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮の時に三種神宝の分離祭祀、大和神社と高龗神社

三輪山周辺

史貴御県坐神社(しきのみあがた) 奈良県桜井市金屋896
 最初の訪問地は、史貴御県坐神社(しきのみあがた)だ。
 神武天皇の論功のとき、弟磯城、名は黒速が、磯城御県主になった場所だ。
 神武天皇の史跡を周るとき、周りきれないでいた神社だった。
 今回は、この神社の西側が、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)と伝えられていることを知って、最初の訪問地になった。

 5時過ぎに着いた。

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地

 写真を取るには明るさが足りない。
 私だけが車から降りて、神社に歩いた。

史貴御県坐神社

 鳥居をくぐると、
「そなたが訪ねたいと願ってきた場所である」
 素戔嗚尊の御言葉だった。
 第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地という碑が建っている西側の小学校の方に杉木立ちがある。

磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)の杉木立

 この杉木立ちがよく夢に出てくる杉木立ちなのだろうか?
 神社回りを始めた平成8(1996)年以来、私は杉木立のなかで何かを探していた。
 素戔嗚尊の言葉は、「ここがそうなのだ」と知らせてくれている。

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや) 奈良県桜井市金屋
 平成24(2012)年5月1日(火)、私の心のなかで誰かが、「第10代崇神天皇 の磯城瑞籬宮」(みずがきのみや)跡に向かって、
「我が宮よ・・」
「我が宮よ・・」
 と呼びかけている。

磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)

 下のように調べてみると、三種神宝の分離祭祀の始まった都(みやこ)だ。

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 崇神1年、天鈴621(紀元前97)年第10代崇神天皇の即位。
 崇神3年に新都として第10代崇神天皇 磯城瑞籬宮伝承地の史貴御県坐神社

 第10代崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていたらしい。

 崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。
 崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
 崇神6年に民が離散し始めた。
 そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ宮遷され、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ宮遷された。
 崇神7(天鈴627)年2月3日の迹迹日百襲姫の湯立て神事によって神託あり。
 崇神7(天鈴627)年10月1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命された。

大神神社の摂社の檜原神社 奈良県桜井市大字三輪字檜原
 前回は、訪れたのは平成12(2000)8月1日(火)の早朝だった。
 朝露に濡れているなかでの参拝だった。

檜原神社(ひばら)

 今回の平成24(2012)年5月5日(土)の参拝は、8時前の参拝となった。
 この時間になってくると、周辺を散策している方の姿が多くなってくる。

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 檜原神社は、祟神天皇の御世、三種神宝のうち、豊耜入姫によって「八咫鏡」が祀られた神社だ。

 崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。
 崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
 崇神6年に民が離散し始めた。
 そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ宮遷され、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ宮遷された。

第11代垂仁天皇 纒向珠城宮伝承地 奈良県桜井市穴師
 檜原神社から大兵主神社(だいひょうず)に向けて車を走らせた。
 奈良街道を北上し、右折するとすぐ 石碑が目に入ってきた。

第11代 垂仁天皇の珠城宮伝承地

 石碑は、珠城山古墳の手前に建っている。
 第11代垂仁天皇 珠城宮のとき、紀元前4年に倭姫によって伊勢神宮が再建され、「八咫鏡」が伊勢神宮に納められた。
 三種神宝の分離祭祀が始まったのは崇神4(天鈴624、紀元前93年)年10月23日の勅命によってだった。
 「八咫鏡」が伊勢神宮に納められるまで89年かかったことになる。

大兵主神社(だいひょうず) 奈良県桜井市穴師
 大兵主神社(だいひょうず)に車でくるまで、第11代垂仁天皇 纒向珠城宮伝承地碑があったし、第12代景行天皇 纒向日代宮伝承地碑が建っている。  

大兵主神社(だいひょうず)

 神社掲載の由来記には「祟神天皇60年」に創祀と伝える。
 三種神宝の「八咫鏡」が伊勢神宮に納められ、「叢雲剣」が熱田神宮の納められるのを見届け、『秀真伝(ほつまつたゑ)』が上奏されるのを見届けた神社ということも出来る。
 非常に興味が尽きない神社だ。

相撲神社(すもう) 奈良県桜井市穴師
 相撲が発祥した神社である。

相撲神社(すもう)の鳥居と土俵

 日本武尊が活躍された第12代景行天皇の御世を伝える。

第12代景行天皇 纒向日代宮伝承地 奈良県桜井市穴師
 相撲神社(すもう)の周辺に第12代景行天皇 纒向日代宮伝承地の石碑があるということだったが、見つからない。
 今回はあきらめて次の神社に向った。
 相撲神社(すもう)を後にして、50メートルくらい走った左側に女房が発見。
第12代景行天皇 纒向日代宮伝承地  第12代景行天皇 纒向日代宮のとき、日本武尊が活躍され、日本武尊が亡き後に、三種神宝のうちの「叢雲剣」が熱田神宮に納められた。
 「叢雲剣」が熱田神宮に納められたのは、第12代景行天皇 纒向日代宮44年(天鈴823年、西暦105年)のときである。
 そして、『秀真伝(ほつまつたゑ)』を大田種子が書き残したのも、第12代景行天皇 纒向日代宮のときである。
 三種神宝の分離祭祀が始まったのは崇神4(天鈴624、紀元前93年)年10月23日の勅命によってだった。
 「叢雲剣」が熱田神宮に納められるまで、198年の月日がかかった。

大和神社(おおやまと) 奈良県天理市新泉町星山306
 平成9(1997)年12月、子どもが生まれたとき、天之大神から
「この子が15歳になったら、御札を納めに参られよ」
 と言われていた。
 15歳というのは、平成24(2012)年12月25日(火)に当たる。
 それ以来、どの神社から御札をもらって、どの神社に納めたらいいのか、常に考えるようになった。
 平成24(2011)年3月11日に茨城県の西金砂神社に参拝したとき、御札を納める神社は、大和神社(おおやまと)だと確信した。
 そのときに向けて願意を通すために参拝にやってきた。

大和神社(おおやまと)の本殿

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 崇神1年、天鈴621(紀元前97)年第10代崇神天皇の即位。
 崇神3年に新都として第10代崇神天皇 磯城瑞籬宮伝承地の史貴御県坐神社

 第10代崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていたらしい。

 崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。
 崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
 崇神6年に民が離散し始めた。
 そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ宮遷され、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ宮遷された。
 崇神7(天鈴627)年2月3日の迹迹日百襲姫の湯立て神事によって神託あり。
 崇神7(天鈴627)年10月1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命された。

大和神社の摂社の高龗神社 奈良県天理市新泉町星山306
 大和神社の摂社 高龗神社は、「高龗」の総社としての位置にある。
 渟名城入姫によって、「叢雲剣(八重垣剣)」が祭られるとき、一緒に祭られたものだという。
 天香具山の国常立神社でも、国常立尊と並んで高龗神社が祭られている。

大和神社摂社の高龗神社

「高龗」について本格的な考察に入ったのは、九頭龍との関わりにおいてだった。
 平成20(2008)年春先から考察を始め、文章化を開始したのは平成21(2009)年1月21日(水)だった。
 平成21(2009)年1月23日(金)にようやく形になってきた。
 →「高龗神たかおかみのかみ)はどこからやってきたのか?

 この論考を考証すべく、各地の神社を周ったのだ。

 大和神社(おおやまと)摂社の高龗神社は、九頭龍と高龗神の追求を終えてから再度参拝する神社だと位置づけていた。
 「高龗」については、大きな区切りを迎えることになった。

渟名城入姫神社
(ぬなきいりびめじんじゃ)
奈良県天理市岸田町字サカイ
 渟名城入姫が、「大国魂神」を祀られたのは、崇神4(天鈴624)年10月23日から崇神7(天鈴627)年10月1日までの3年間だった。
 その渟名城入姫を祭っている。

渟名城入姫神社

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 崇神1年、天鈴621(紀元前97)年第10代崇神天皇の即位。
 崇神3年に新都として第10代崇神天皇 磯城瑞籬宮伝承地の史貴御県坐神社

 第10代崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていたらしい。

 崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城入姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。
 崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
 崇神6年に民が離散し始めた。
 そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ宮遷され、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ宮遷された。
 崇神7(天鈴627)年2月3日の迹迹日百襲姫の湯立て神事によって神託あり。
 崇神7(天鈴627)年10月1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命された。
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【6ヶ所】2012年5月5日(土)三輪山登山、日向神社と高宮神社・奥津磐座

三輪山周辺

大神神社 奈良県桜井市三輪
 大神神社
 三輪山をご神体山とする。

天皇社 奈良県桜井市三輪
 天皇社という社があることは前から知っていた。
 神坐日向社(ひむかい)を探しながら境内を歩いていると天皇社の側を通った。
 案内板をみて、第10代崇神天皇を祀っていることを知ってビックリした。
 急きょ石段を登り、神社の前で祝詞奏上。

天皇社

「大神神社でこういう風に崇神天皇のことを祀られていたんだ」
 ちょっとしたカルチャーショックだった。

神坐日向社 奈良県櫻井市三輪字御子ノ森
 第5代大物主の蕗根命で語られる「海原の光り」という場面は、日に向かうことから、日向神(ひむかい)という名が、第5代大物主の蕗根命に与えられていたかもしれない。
 大三輪神社の摂社神坐日向社(みわにいますひむかい)周辺が「第6代大物主の櫛甕玉命」が住まわれた土地だとすると、住所の「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」の「御子」とは、日向神(ひむかい)の「御子」という意味を持ち合わせてくるだろう。

神坐日向社

 三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」(ひむかいみこ)である点から、「第6代大物主の櫛甕玉命」は、「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられてのち、山頂において「日向御子神」(ひむかいみこ)として祭られた可能性がある。
 あくまでも『秀真伝(ほつまつたゑ)』を主眼においた解釈である。

狭井神社 奈良県桜井市三輪
 狭井神社
 すごい人だ。
 三輪山への登山口。
 登山するのも行列、下山するの行列。

三輪山の高宮神社(こうのみや) 奈良県櫻井市三輪字神峯(三輪山山頂)
 三輪山では撮影が禁止されている。
 女房が登ってくるまで、実加に絵を描いてもらった。

高宮神社

「女房はここまで登ってこれるのだろうか」
 と案じながら待つ。
 三輪山の高宮神社(こうのみや)は、三輪山麓の神坐日向社(ひむかい)手前にある「高宮」さんの氏神である、第6代大物主の櫛甕玉命を祀られている。

 明治18年(1885)、時の大神神社宮司から明治政府に対して、

「現高宮社(こうのみや)に、弘仁3年(1846・江戸末期)付けの“神ノ峯殿内峯遷坐神坐日向神社幸魂奇魂神霊”と記した標札があるのを証拠に、式内・神坐日向神社(ひむかい)は古来から三輪山頂にあったが、維新後、これを高宮神社(こうのみや)としたのは誤りだから、訂正してほしい」(大意)
との願いが出されたが、政府から
「(それを証する)旧記確書等が無いから、従前の通りとする」(大意)

 として却下された、という。

 「高宮」さんにしてみれば、ご自分の苗字が三輪山に祀られているのは「畏れ多い」事であったのだろう。
神坐日向社(ひむかい)の手前にあった「高宮」さん宅の表札。
      ↓

神坐日向社にある「高宮」さん宅の表札

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』31紋によれば、「鰐彦命(わにひこ)までが、三輪の神」〔31-16〕と記述されているところから、櫛甕玉命(くしみかたま)が大神神社の祭神に加わっているようにも理解できる。
 ところが、大神神社の祭神は、
 「大物主大神(第2代大物主の奇彦命)
  大己貴大神(第5代大物主の蕗根命)
  少彦名大神(第5代大物主の蕗根命とともに全国を回った豊祇彦命) 」
 となっているので、第6代大物主の櫛甕玉命の名前が見えなくなっている。
「三輪の神」になったとされる「第6代大物主の櫛甕玉命(鰐彦命)」は、大神神社の祭神に加わることなく、三輪山の神の一柱として、三輪山の高宮神社(こうのみや)で祀られていたのである。
「第6代大物主の櫛甕玉命(鰐彦命)」がお住まいになられていた場所は、神坐日向社(ひむかい)としても祀られている。

 平面的な世相のなかで、とても深い歴史を思わせてくれる。

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 第5代大物主の蕗根命で語られる「海原の光り」という場面は、日に向かうことから、日向神(ひむかい)という名が、第5代大物主の蕗根命に与えられていたかもしれない。
 大三輪神社の摂社神坐日向社(みわにいますひむかい)周辺が「第6代大物主の櫛甕玉命」が住まわれた土地だとすると、住所の「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」の「御子」とは、日向神(ひむかい)の「御子」という意味を持ち合わせてくるだろう。
 三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」(ひむかいみこ)である点から、「第6代大物主の櫛甕玉命」は、「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられてのち、山頂において「日向御子神」(ひむかいみこ)として祭られた可能性がある。
 あくまでも『秀真伝(ほつまつたゑ)』に主眼をおいた解釈である。

高宮神社(こうのみや)の東にある三輪山山頂の奥津磐座 奈良県櫻井市三輪字神峯(三輪山山頂)
 登山の疲れが少しは癒えたので、三輪山山頂の奥津磐座に向かった。
 磐座の前でも長蛇の列になっている。

奥津磐座

 下山するまで時間がないので、南側に周って祝詞奏上した。
 三輪山の高宮神社(こうのみや)の方に戻ると、女房が到着したところだった。
「登ってこれたんだ」
 と安堵した。
 女房が三輪山山頂の奥津磐座から戻ってくるのを待っていると、山頂には我々だけになったようだ。
 三輪山山頂の奥津磐座とは、神が人体をもって現れる前、伊邪那岐尊と伊邪那美尊が納められた天之逆矛の切っ先に相当する。

(※)登って降りてくるまで3時間以内に参拝しなければならない。  

大和三山と三輪山

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グリーンパレス 広陵町
奈良県北葛城郡広陵町大字笠168番地
0745−55−5755

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【3ヶ所】2012年5月6日(日)第10代祟神天皇陵、第12代景行天皇陵、神武天皇后選定

三輪山周辺

第10代 祟神天皇陵
(すじんてんのうりょう)
奈良県天理市柳本町
 よく車で通過する場所なので場所は知っていた。
 参拝するのは今回が始めてだ。

第10代 祟神天皇陵(すじん)

 駐車場に車を留めて、崇神天皇陵に向かうと、丘になっているその稜の姿に圧倒された。
「すごい」
 の一言。

第12代 景行天皇陵
(けいこうてんのうりょう)
奈良県天理市渋谷町
 第10代 祟神天皇陵(すじんてんのうりょう)の南側すぐ近くにある。
 第12代 景行天皇陵 (けいこうてんのうりょう)

第12代 景行天皇陵(けいこう)

 日本武尊の父であり、第12代 景行天皇のときに大田種子から『秀真伝(ほつまつたゑ)』の上奏をうけた。
 三種神宝のうち「叢雲剣」が熱田神宮に納められたのも第12代 景行天皇のときであった。

狭井河之上顕彰碑
(さいがはのほとり)
奈良県桜井市茅原の狭井神社の北
→ 19箇所の顕彰碑はこちら
 「大神神社」の参道手前に線路があるが、その線路を越えて、線路沿いを走る。
 前回の平成12(2000)8月1日(火曜日)は、檜原神社から大神神社に向かうとき、たまたま発見した。
 ちょうどアルファードの方向から下ってきたときだ。
 この時が、神武天皇の聖蹟顕彰碑に接した最初だった。

狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)

 今回は、神武天皇顕彰碑の奈良県での最後として参拝しておきたかった。

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 「山の辺の道」に面した「岩坪池」を過ぎて、三叉路に差しかかると、山側に「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」の歌碑がある。

 葦原( あしはら)の しけしき小屋に

 菅畳(すがたたみ) いやさや敷きて わが二人寝し

 これは、東征の後に橿原の地で即位した神武天皇が、大久米の進言によって、狭井川の辺で見初めた比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と一夜を明かした時の歌で、「古事記」中つ巻にあり、それを記念して、三叉路から西へちょっと行った所に「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」が建っています。

橿原宮の造営と后の選定

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P240-242 )
  末(すゑ)治(おさ)まれば  
筑紫(つくし)より 上(のぼ)る天種子命(たねこ)と  
大物主命(ものぬし)に 「都(みやこ)遷(うつ)さん  
国見(くにみ)よ」と 勅(みこと)お受(う)けて  
巡(めぐ)り見(み)る 「橿原(かしはら)よし」と  
申(もふ)すとき 君(きみ)も思(をも)ひは  
同(おな)じく 天富命(あめとみ)おして 『古語拾遺』に、「仍りて、天富命<太玉命が孫なり>をして、手置帆負・彦狭知の二柱の神が孫を率て、斎斧・斎鉏を以って、始めて磐根に宮柱ふとしり立て、高天原に千木高りし、皇孫命のみづの御殿を造り仕え奉れるなり」。
『先代旧事本紀』巻七「天皇本紀」神武天皇即位前己末年三月の条に・・
『記紀』に天富命の記述は見られない。
天富命が神武天皇より忌部の姓を賜ったことが、三十紋〔30-5〕にみえるが、忌部(斎部)は、鏡・玉矛・盾・木綿・麻・神殿などを造るのを職とした。
宮(みや)造(つく)り 后(きさき)立(た)てんと  
諸(もろ)に問(と)ふ 宇佐津彦(うさつ)が申(もふ)す  
「事代主命(ことしろ)が 玉櫛姫(たまくしひめ)と生(う)む  
姫(ひめ)蹈鞴(たたら) 五十鈴姫(ゐそすずひめ)は  
国(くに)の色(いろ) 阿波宮(あはみや)に坐(ま)す  
これよけん」 天皇(すめらぎ)笑(ゑ)みて  
后(きさき)とす 事代主命(ことしろぬし)お  
恵美須神(ゑみすかみ) 孫(まご)の櫛根命(くしね)お  
県主(あがたぬし) 社(やしろ)造(つく)らせ  
メの二十日 祭(まつ)る大三輪(おおみわ) 「メ」は、「メ月」の節略。 「メ月」は、他の箇所に載るその記述と『紀』の記述を比べると10月に相当すると考えられるが、確証を欠くので、本文・口語訳ともにしばらくカタカナ名で表記する。
神奈備(かんなみ)ぞ 神(かん)よりに名(な)も  
神日本(かんやまと) 磐余彦(いわわれひこ)の  
天君(あまきみ)と あまねく触(ふ)れて  
年サナト 橿原宮(かしはらみや)の 天鈴(あすず)58年
初年(はつとし)と 見よ神武仁尊(かんたけ)の  
大いなるかな    

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 狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)での祝詞奏上を終えたのが平成24(2012)年5月6日11時8分。
 祝詞の奏上を始めると、雷鳴が轟き始め、小粒の雨が落ちてきた。
 雷鳴轟く小雨の中、顕彰碑のところに光が差し込み、美しく浮き上がってみえる。
 車に乗り込むと雨は止む。

狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)

 こういうタイミングが、神社周りの妙味だ。

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   雨の神(あめのみくまりの神・くにのみくまりの神)
   風の神(しなどひこの神・しなどひめの神)
   岩の神(いわなかひめの神・いわとわけの神)
   荒の神(大雷のをの神・わきいかづちおの神)
   地震の神(武甕槌神・経津主神)
   木の神(木花開耶姫神)
   金の神(かねのかみ)
   火の神(わかひめきみの神)
   ひのでの神(彦火々出見神)
   竜宮の乙姫殿(玉依姫の神)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 これで全ての行程を終えた。

 最後に大神神社にご報告に向かった。
 駐車待ちの車の運転を女房に代わり、私だけ大神神社に行く。
 杉木立の参道を歩き始めると、
「よくやり遂げられた」
「よく、やり遂げてくだすった」
 と同時に2人の声が聞こえた。
 第2代大物主の奇彦命と第5代大物主の蕗根命(大己貴命)であろうか?

 次、神坐日向社(ひむかい)に向かった。

神坐日向社

 私が5歳のとき、「因幡の白兎」の絵本の表紙をみて、その表紙の大国主命に向かって私は次のように語りかけていた。
「あなたがここにいて、なぜ私はここにいるのか?」
 と。
 私は、絵本をもっている私の小さな子どもの手をみて、非常に違和感をもったことを昨日のように思い出している。
 「因幡の白兎」の伝承地を周ろうとすると、子どもの頃の記憶が鮮明に蘇ってきて、平成19(2007)年8月まで周ることが出来ないでいた。

大国主命の「因幡の白兎」で有名な白兎神社
 → 「因幡の白兎」で有名な白兎神社

 子どもの頃の記憶が蘇る度に、「大国主命」について、どれだけのことを知っただろうか?
 ・・・こういう問いが頭をもたげてきて、なかなか行ききれなかったのだ。
 「大国主命」について調べれば調べるほど、難しさがいっぱいあった。
 第1代大物主の奇杵命も、大国主命や大己貴命と呼ばれていたし、第5代大物主の蕗根命も、大国主命や大己貴命と呼ばれていた。
 さらに、第6代大物主の櫛甕玉命も、大国主命や大己貴命と呼ばれていた。
 私が5歳のとき
「あなたがここにいて、なぜ私はここにいるのか?」
 と問いかけた「あなた」(大国主命)とは誰であったのか、明確に回答を出せないでいた。

 5歳の時の私の記憶の実感では、私はその「大国主命」と同じ時代を生き抜いてきたのだ。

 『上記(うえつふみ)』では、冬衣命(ふゆきぬ)が刺国若姫と結ばれ、大国主命(大土地神)を生む。
 冬衣命(ふゆきぬ)と刺国若姫の子が、大国主命であり「因幡の白兎」の主人公である。
 『上記(うえつふみ)』の冬衣命(ふゆきぬ)は蕗根命(ふきね)という別称をもっている。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』と『上記(うえつふみ)』に文脈上のつながりがあるとすれば、『上記(うえつふみ)』の冬衣命(ふゆきぬ)とは、『秀真伝(ほつまつたゑ)』の第5代大物主の蕗根命のことである。
 さらに、大国主命の母親の刺国若姫は、『秀真伝(ほつまつたゑ)』と『上記(うえつふみ)』ともに現れている。
 このように、『秀真伝(ほつまつたゑ)』と『上記(うえつふみ)』に文脈上のつながりがあるとすれば、「因幡の白兎」の大国主命とは、第6代大物主の櫛甕玉命である。

 こういう仮定は、2009年頃から持っていたが、今回三輪山に登山するまで確信をもてないでいた。

(※)参考→ 『秀真伝(ほつまつたゑ)』と『 注釈 上紀(うえつふみ) が伝える大国主命

 今回、神坐日向社(ひむかい)と三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)を参拝し、第6代大物主の櫛甕玉命が三輪山の頂にある高宮神社(こうのみや)に「日向御子神(ひむかいみこかみ)」として祭られていることを知って、これまでの不勉強を恥じた。
「因幡の白兎」の物語は、紀元前776年(50鈴木・999枝・2穂)から、第5代大物主の蕗根命が神上がり神武天皇が誕生される紀元前712年(鰐彦64歳)までの、櫛甕玉命が第6代大物主に就任する前の数年間の出来事だろう。
 この期間の紀元前718年に「鈴木の木」が枯れている。

 もう一度神坐日向社(ひむかい)の神前に立った。

 私が5歳の頃、「因幡の白兎」の大国主命に問いかけたときのように、両手をめいっぱい広げ、
「あなたがここにいて、なぜ私はここにいるのか?」
 と問うた。

 耳をつんざくような大きな雷鳴が轟いた。

 ドロドロと、低く長く雷鳴は続いた。
 突風が急にゴォ〜っと吹き出し、「森」の木立を大きく揺らした。

 大粒の雨が、激しく木立の葉を叩いた。

 狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)の所でも雷鳴が轟いたが、神武天皇の后・五十鈴蹈鞴姫は、第6代大物主の櫛甕玉命の妹だったのだ。 

狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)

 あれから、2,700年経ったのだ。

 祝詞を奏上した。

 ずぶ濡れになったが、こういう祝詞もいいものだ。

 神坐日向社(みわにいますひむかい)は、「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」という住所になっていて、「」という地名をもっている。
 平成22(2010)年2月1日(月)、未来の私は過去で死に現在になったとき復活する・・という夢でみた「」に関係しているかもしれない。

 平成22(2010)年2月1日(月)の夢。◆

 演武場がある場面だ。
 子どもの私が武術の練習をしている。
 いろんな姿に変装し、密かに私を探る人物がいた。
 私は宙に小さいステージを作り、その上で秘剣の練習に励んでいる。
 試合に出る列に私は並んだ。
 試合場から帰ってくる人列の中の女の子の姿の影に隠れて、密かに私を探る人物が通り過ぎていった。
 試合開始前のアナウンスで、主催者側からある報告がなされた。
未来のお前が、未来の力を現在で使うために、過去に行き亡くなった。
未来の力を現在で使うためには、お前はその場に立たなければならない
 演武場にいる全ての人々が聞いた。
 その言葉を聞いて、私の胸裏に何らかのイメージが響いてくる。
 いろんな人物が、少年の私が立ち寄った場所を探し始めた。
123・・いちにさん・・)という数字の読み方でを封じていたにも関わらず、時代が若やいでいる」
「これも時代の定めと思い、の封印を解こう」
 と宣言され、封印が解かれた。
 多くの人たちが、これまで封印されていたに行き何かを探そうとしている。

 ある人物が、少年の私に関する有力な情報を持っているようだ。

 その人物は遠い過去の私のことを知っている人物で、未来において、私がさらに先の未来の力を使うのを防ぐためにやって来た人物だった。
 過去からやってきた人物のようにも思える。
 ある場所に立ち、その人物と対面したところで目覚めた。

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 平成24(2012)年5月6日(日)の今日、私は確かに「ある場所」に立ち、「その人物」と対面した、という実感をもった。

 大直種子を祀る若宮社(大直禰子神社)も参拝する予定だったが、急な大雨になったため、また違う機会をみる。
 大直根子は、第6代大物主の櫛甕玉命に続いて、『秀真伝(ほつまつたゑ)』を著わした。
 雨が降り注ぐなか、車に戻ったのは、12時直前だった。

 最後に第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)に向かった。

 今回の参拝は、この宮から始まった。
 最後にもう一目見ておきたかった。
 大正4年に建立された碑に重なって、白金の円柱が重なって見えてくる。
 天之御柱と国之御柱を見せていただいたのだろうか?

 全ての行程を12時30分に終了。

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 平成24(2012)年5月6日(日)に自宅に戻って、夜10過ぎに天之大神からのお話。
「今回の旅行はお忍びでのもの」
・・それに対して、平成24(2012)年12月25日の参拝は、公式参拝であり、全ての神々に周知されているという密意が含まれているのかもしれない。
「今回の件は、全ての神々に伏せてあるゆえ、そなたたちが何をやったか知る神はいない」
「天之沼矛や天之逆矛は、揺らぐものではない」
「三輪の神とは、そなたがやろうとすることを身を呈してやり遂げてくれる唯一の神じゃ」

大和三山と三輪山

葛城山から三輪山

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